社会の窓から

社会の窓を開け放ち、世界の人々と交わろう。

遺書96(数字は適当)

昨日は嬉しいことがありました。スーリンからメールが来た。三か月ぶりです。まあ、この数年は、2~3月置きぐらいしかメールのやり取りしてないので、今回が特別ということではないのですが、しばらくメールがこないと、心配してしまいます。娘が三人(中国2ギリシャ1)もいると、心配事が尽きません(笑)。
 
まあ、それはそれで、、、そう、何というか、人生に潤いを与えてくれているとでも思えば、そうですね、有難いことなのかも知れませんね。
 
ちなみに、プロ野球の試合の勝利のお立ち台に立った外国人選手のヒーローインタビューの第一声は、日本語の“そうですねぇ~”から始まるのが、最近の“お約束”になっているみたいです(阪神だけかな?)。
 
So,,,,
 
日本語と英語で、発音も、意味も、ニュアンスも、強さの程度も、広がりの範囲も概ね重なる単語が、“そう”と“So”。
 
そんなことも加味して、“So”は僕の好きな言葉です。英訳するときも、文章のどこかに、適当に、やたらに差し込んでいます。
 
翻訳といえば、、、、語学力の乏しい僕にとっては、地獄そのもので、、、。
 
ここんところ、起きている間の7~8割は、「中国の野生植物」に取り組んでいます。得意分野=アジサイ、キイチゴ、カエデ、タンポポなど=でないところの、なおかつ一般受けしそうなグループを優先、ということで、シャクナゲ(ツツジ) をひとまず終えて、サクラソウを整理しているところです(このあと、バラとかユリとかリンドウとか青い罌粟とかを予定)。
 
もっとも、原版写真(シャクナゲのセレクト分で2500枚)をモニカにメール送信する作業が大変で、、、マクドやイオンのWi-Fiは速いスピードで送信できるのですが、マクドはWi-Fi自体が繋がらないことが多いし、イオンも色々と問題が山積みで、たまにしか利用できません。結局、一番確実なスタバ主体ということになるのだけれど、スタバは(Wi-Fi自体は確実に利用できるとしても)データの転送が、絶望的に遅い!(マクドやイオンの数10倍の時間がかかる)。いやもう、精神的にメゲてしまいます。
 
膨大な原版写真を整理→重さとか画像状態とかを調節→それをセレクトしてモニカに転送。と共に、一部の写真をワードに張り付けてテキストを作成、中国語に訳すための下訳として、まず自分で英語に翻訳。
 
この作業が、心身ともに疲れます。モニカは、「調節しなくてもそのままでいい」「英訳しなくても日本語のままでもいい」と言うのですが、、、ついつい不安になって、というか、念のためにというか、「画像調節」と「文章翻訳」に取り組んでいるのです。
 
写真の整理については、どれを選ぶか、あるいは選んだ写真をどのような基準で調節していくか、、、、実際の作業自体よりも、「それを決めること」のほうに、多大な時間労力を使ってしまいます(だから、余り考えずに、より多くの写真を送っている)。まとめて送る方法を知らないので、2500枚、アナログ的手法で1枚(実際は7~8枚)づつ送信しています(今日もついさっきまでその作業をしていた)。
 
文章(解説、あるいはメモ)の翻訳のほうも、辛いです。語学力皆無の僕には、チャレンジ自体が土台無謀なのかも知れません。例えば、冠詞の使い方とか、動詞の活用とか、まるで分らない。そりゃもう酷いものです。僕の能力でもってしては、正しい英語にしようとすればするほどドツボに嵌ってしまいます。
 
開き直って、「“ちゃんとした英語”にする絶対的な必要があるのだろうか?」とか、考えたりもします。
 
Send me the pillow that you dream on だって、ひどいのになると、Send me pillow dream on とかまで省略されちゃってる(日本じゃなく向こうで)。それでも、たぶん言わんとしてることは分かるのかも。向こうの人たちは、大して気にしてないのかも知れません。
 
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こんなことを、ふと思いだしました(共に40年以上昔のことですが、その時の“雰囲気”みたいなものを鮮明に覚えてる)。
 
昔、確か初めて北海道に行った時のこと。上野から青森に向かう夜行列車の中で、すぐ近くにいたおじさんたちが、夜通し喋り続けていました。僕は、その人たちを、(日本以外の)アジアのどこかの国の人、と思い込んでいました。朝になって青森に着いて、軽く挨拶を交わしたときに、彼らの喋っていた言葉が、実は日本語であったことが分かりました。
 
やはり、ずっと昔のこと。初めて屋久島に通いだした頃です。屋久島の比較対象地域として、周辺地域(種子島、三島列島、トカラ列島など)にも度々訪ねました。大隅半島南部の「辺塚」という村(稲尾岳の南麓で「ヘツカリンドウ」の名の起源)にも、何度か行きました。村に一軒の旅館があって、そこの若奥さん(たぶん)が、実に僕の好みのタイプで、、、まあ、それはともかく。
 
ある朝、目覚めると、何人かの人たちが喋っている声が聞こえました。「外国人も宿泊してるんだ」と、夢うつつに思っていました。声の主は、若奥さんや、その家族の人たちでした。僕としては、100%外国語であると信じていた。でも、紛い無き日本語だったのですね。むろん僕との会話は、「普通の日本語」を使っていたのですが。
 
いや、どう考えても、日本語には聞こえません(僕の聴覚が可笑しいのかも知れんですが)。青森の端っこの村の人と、鹿児島の端っこの村の人との間に、会話は成り立つのでしょうか?むろん成り立ちますね。そのために「標準語」があるわけですから。でも、互いに地元の言葉で話すとしたら、絶対に意思の疎通は出来ません。そこに、「教育」や「文明」(その象徴の一つが共通言語の確立とその浸透)が助け船を出し、実質的な「単一国家」と成り得ているのです。
 
でも、それぞれの地方の人同士は、それぞれの独自の言葉で会話している。一つの国に、互いに理解不能な言語が何通りもあるのは、いちいち面倒だし、全部「標準語」にしてしまえば良いと思うのだけれど、そうもいかないのでしょうね。より多くの人とは交われないけれど、(それらの世界では成し得ない)より深いプリミティブな人間関係の構築。僕が、その若奥さん(?)の気を惹こうと何か話し掛けるとしても(無論そんなことはしませんでしたが)、深い部分での意思の疎通という点では、絶対的なハンディがあるわけです。
 
もちろん、どちらが良いか、という問題ではありませんね。一つの言語を完全に極めることと、全てをカバーすることとは、目的の方向性が全く異なります。正しくローカルでプリミティブな方言。正確な標準語(“世界”という範囲に置き換えれば国際語=実質英語)。それぞれの状況下で、どちらかを、より的確に使うことで、より分かり敢える範囲が広がる。
 
教育を受け、自己の成長に徹する。プリミティブ(愚鈍と置き換えても良い?) 維持に徹する。むろん両方を自家薬籠中に出来れば、それに越したことはないです。どっちも、(正反対の立場ですが)「一か所への集中」ということでは同じなわけですから。
 
ちょっと、何言ってるのか分からなくなってきましたけれど、面倒なのでそのままにしときます(まあ、痴ほう症老人のプラットホームでの独り言ということでご容赦ください)。
 
いずれにしても、僕は、どっちの能力もないみたいですね。どちらの方向に対しても極めて中途半端で、いわば適当に「ごちゃまぜ」です。
 
圧倒的に下手な中国語でスーリンと会話し、圧倒的に下手な英語でモニカと会話。でも、少なくても、僕にとっては、日本語で自由な会話交流が可能なはずの対日本人よりも、良い関係が築けている(単に人徳の欠如、ということなのかも知れないけれど、笑)。
 
自分のこと以外でも、お手本があります。ギリシャに住む三世だって、相当に出鱈目な英語で、ジョージと(たぶん誰よりも深い部分で)コミュニケートが取れている。
 
それらの現状に満足して良いとは思っていません。でも、それでも良いかも、とは思っています。
 
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蛇足。言葉の意味の持つ「標準」の基準は、時代と共に変わっていくのだと思います。
 
スタバで、一日中、スタッフとお客さんのやり取りを聞いているわけですが、、、。最近、気になって仕方がない言葉。
「大丈夫です」。スタッフ側からもお客側さん側からも、その言葉が発せられる頻度が、余りに多いような気がするのです。いや、どこが変なの?気になるほうが可笑しい、と言われればそれまでなのですが。
 
客:コーヒーください。
店員:食事は大丈夫ですか?
客:大丈夫です。
 
本来ならば、
客:コーヒーください。
店員:食事は必要ですか?
客:いりません。
ではないかと思うのですが、、、。
 
本来「O.K.(=前向き)」の意味を持つ言葉が、「NO」の代用にされてしまっているような気がする。
 
「ノー」とあからさまに言っちゃいかんのが(あるいは「必要かどうか」をストレートに相手に尋ねないことが)日本の礼儀なのかも知れません。いつの間にか、それが「標準」になっているわけです。
 
もっと端的なのは、「よろしかった」。1000円でよろしかった(よかった)ですか? なんて言われても、よろしいも何も、僕の中の標準で真面目に反応すれば、過去形で対されることに、どんな思惑が含まれているのか戸惑うしかないのだけれど、それが標準になってしまっているのだから、(戸惑いは無視して)素直に溶け込むしかありません。
 
「学問」「教育」「空気」一体になって、大衆の間で力をもった「基準」が、そのつど「標準」となるのです。
 
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話がまた逸れ過ぎました。
 
で、いきなり結論に持っていきます。
 
「メモや解説の翻訳」についても「写真の整理や調節」についても同じことが言える(全く別次元下の同質要素)
のではないかと思うのですが、、、、。
 
言語にしても画像にしても、「焦点(目的とする部分)がぴったり」という必要性はあると思います。でも、それが成された瞬間に、周辺は消える。写真の色合いや鮮度などを調節しようとして、その時は“よし、これで決定!”と思っていても、後で改めて見直すと、最初にあった良さのどこかが、欠けてしまっている。
 
柔らかさ、暖かさ、広がり、、、のような部分と、鋭さ、透徹、集中、、、のような部分の相関性。
 
言葉を統一・固定することで、より多くの世界の共通認識が為されるわけですが、対象が明晰になればなるほど、広がり、曖昧さ、付随する“一見無駄に思える”部分、、、いわば「動き」のようなものが失われていく。
 
僕は、必ずしも「曖昧であること」を「よし」としているわけではありません。統一性の構築・基準の追求は、必要だと思っています。でも、それをもってのみ「正解」「正義」を導き出すことに対しては、どうしても拒否反応を示してしまいます。
 
体系的に、方法論に沿って、理路整然と進められていく、「教育」や「文化」に対する過信を、最近の日本社会の中に感じてなりません。
 
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太陽と暗闇は共存しうる(結論を言えば、してると思いますが)のでしょうか?
考えてみれば、地球に「昼」と「夜」がるのは、凄い事なのかも知れません。
 
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僕が大嫌いなのは、例えば、ローリング・ストーンズ誌(注:ローリング・ストーンズは大好きです)のような方向性、、、、ただただ空気に乗っかって信望する、実は自分たち自身が「カウンターを受けるべきカルチャー」になってしまっていることに気が付いていない、カウンター・カルチャーの民。
 
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ブライアン・ウイルソンとマイク・ラブがいてこそ、ビーチ・ボーイズです(カール・ウイルソンが亡くなった後、アル・ジャーディンが「カールのいないビーチ・ボーイズはビーチ・ボーイズではない」といって実質解散に至ったことは、また別に考えましょう)。
 
ずっと後、ビーチ・ボーイズの呪縛から解き放たれて自由になったのであろうブライアンに、日本の某音楽評論家が、このような質問をしました。 
「改めて今、(作詞作曲の)コンビを組むとしたら、誰を選びますか?」
ブライアンは即座に「マイク」と答えました。
質問した日本の(ブライアン信者の)その音楽評論は、(彼からすればまさかの答えに)「そ、それは無いんじゃ、、、」と、戸惑ったそうな。「空気」に乗っかるだけの大衆の多くは、その程度の感性しか持ってないということでしょう。
 
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辻邦夫(たぶん生涯かけて「現象を明確に切り取り表現する」ことに尽くした人)と北杜夫(たぶんその対極)は、非常に仲が良かった。
 
辻邦夫さん、、、、、。
 
こんなこと(いわば“犯罪行為”の自慢と変わらない)は、公に書いちゃいけない(でも、当日にもちょっと書いた)ことだと思うのですが、、、。
 
北杜夫さんが亡くなられた日、新宿から中央線で立川に戻る途中、吉祥寺の手前で隣に座っている人が読んでいた(夕刊フジだか日刊ゲンダイだかの)新聞記事が目に留まりました。
「作家の北杜夫氏が亡くなった、通夜はお断りします」
咄嗟に吉祥寺で下車し、井之頭線に乗り換えて(何年かぶりで)東松原に向かいました。親しい人たち・身近な人達や、交流のあった作家や有名人の方々も、「約束事」を守って通夜を控えていたのです。なのに、敢えて押しかけた。決して、容認されるべき行為でないことは、分かっています。でも、どうしても、最後にお会いしておきたかった。
 
約束破りの訪問にも関わらず、奥さんは招きいれて下さいました。応接間の、冷凍処置を施された遺骸の前で、最終電車ぎりぎりまで、話をしました(「昆虫の話が出来て喜んでると思う」、と言ってくださった)。
 
棺以外には何もない簡素な応接間の壁際の、ガランとした大きな本棚の真ん中には、手塚治虫の「火の鳥」の全集だけが収められていました。
「地震のあと、本棚の倒壊を未然に防ぐために蔵書は全て処分したのだけれど、この本だけは身近に置いておきたいと、最後までここに残していた」とのことです。
 
あと、棺の傍らに、先に亡くなった辻邦夫さんの奥さんからの花束が置かれていました。
 
思えば、北杜夫さん本人とは、いつも挨拶程度しか言葉を交わさなかったのですが、奥さんには、(ときどきお金を借りに行ったりしていたので)しょっちゅう怒られていた。頑張ることだけが、恩返しだと思っています。
 
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話が飛びまくりです。以下も全然違う話題です(北杜夫さんのことに触れたのは、この流れからですが)。
 
人生で、何年かごとに、斎藤緑雨に嵌ります。今回は、かなりどっぷりと嵌ってしまっている。先日、その流れで坪内逍遥の「小説神髄」と「当世書生気質」*に関する明治文学関係の文献をネット・サーフしていた時に、ある評論家の読書感想コラム(立宮翔太さんという方の「文学どうでしょう」)で、北杜夫の「船乗りクプクプの冒険」が紹介されているのを見つけました。
 
*「坪内逍遥」「小説神髄」「当世書生気質」については、僕の中では否定や肯定を含む様々な思いがあって、とてもここでは書ききれないので、触れません。
 
「船乗りクプクプの冒険」。凄く推奨されていて、ちょっと嬉しくなりました。
 
僕のfavorite小説は、
北杜夫「船乗りクプクプの冒険」
澁澤龍彦「高丘親王航海記」
前者には中学生の頃、後者には40歳を過ぎてから出会ったのですが、内容(エキス)はそっくりですね。
 
そういえば“Sloop John B.”(ビーチ・ボーイズ以前にも多くのミュージシャンによって歌われている)の歌詞にも、両者との共通要素が感じ取れます。
“I Wanna Go Home”、、、、僕は、このフレーズに弱い。
(あともうひとつ挙げれば“Let Me Go”)
「連れてってソング」と「帰りたいソング」。
(連れてってくれる人もいないし、帰るべきところもない)僕には縁のない言葉なのですが、なぜか、たまらなく惹きつけられるのです。
 
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支離滅裂になってしまいました。
 
駅のプラットホームも、メディアのプラットホームも、ひと括りすればインフラの場の一つなわけで、どちらにしても“それ自体”には意味はなく、そこから「電車に乗る」「情報を発信する」ことで、初めて意義が齎されます。
 
プラットホームで独り言を呟くのではなく、なんとか「電車」に乗る工夫をせねば、と考えている今日この頃です。