社会の窓から

社会の窓を開け放ち、世界の人々と交わろう。

2020.2.5 青山潤三日記

梓みちよさんが亡くなりました。76歳だったそうです。僕は、日本の歌謡曲(J・Popとかも)に全く興味ないし、もちろんご本人とも何の接点もないのですが、、、。
 
ここのところ、ブログ、「青山潤三の世界・あや子版」と「社会の窓から」に“武漢新型コロナ肺炎ウイルス”についての記事を載せ続けている(一昨日、中国を脱出して日本に帰ってきました、、、そのことについては書きたいこと、書くべきことが数多くあります、しかしあえて暫く間を置きます)わけですが、当初は僕の本意ではなかったのです。
 
ジョイナス(高木守道)逝去のショックが余りにも大きすぎて、1~2か月は「追悼・高木守道」のままで、ブログ更新を控えていよう、と考えていました。次の記事は「高木守道と小沢一郎」にしようと。
 
ところが、三世が、私信として送信した新型ウイルス関連のメールを、記事として載っけてしまった。じゃあ、この際、新型ウイルス関係の記事を書いて行こうと、思いを切り替えたわけです。
 
一時中断して、ジョイナスに戻ります。高木守道、1941年7月17日生まれ。東松原のウナギ屋のおばちゃんと、確か誕生日が一日違いです(16日か18日)。梓みちよは僕より5歳上、小沢一郎は6つ上、ジョイナスと鰻屋のおばちゃんは7つ上ですね。
 
去年は、バッキーが亡くなり、鎌田実が亡くなり(この二人は関西限定?の偉人)、カネやんが亡くなりました。そして今年に入ってジョイナス(高木守道のことをなぜ「ジョイナス」と言うのか、実は僕は知りません、由来をご存じの方いらっしゃれば教えてください)まで逝ってしまった、、、。
 
バッキーや鎌田や金田は、年齢を考えても「仕方がないか、、、」という想いがあったのですが、まさか守道がこんなに早く逝くと思わなかったので、ショックが大きいのです。
 
でも考えたら僕より7つ上、、、、仕方がないのかも。
 
鰻屋のおばちゃんは「男女の組み合わせは女が7つ上、というのが一番いいのよ!」といつも言ってました(ご主人は一回り以上年上で、病弱です)。
 
僕は、年上の女性には興味がないのです。でも、鰻屋のおばちゃんだけは別格。
 
僕の人生の最大の失敗は、なぜ鰻屋のおばちゃんにアプローチしなかったのか、、、。
 
いや、ものすごい美人で、セクシーだったのです。本来ならば、鰻屋さんの店頭などにいる人ではないのです(でも、こんなこと言うと差別ですね、鰻屋さんは立派な仕事ですから)。
 
本人も言うように「若い頃は“五月みどり”ソックリ(デビ夫人にも似ている)と言われたんよ」、いや、もっと美人、、、僕なんかから見れば、文字通り“高根の花”です。
 
でも、僕のことを弟のように可愛がってくれた。「私と(やはり近所に住む)北杜夫の奥さんが、青山さんのファン代表だから、頑張って出世してね!」と、夜に店を閉める前に、毎日のように、僕のために「うな丼」を残していてくれた(無料で貰っていた)。僕が東松原に住んだ1976年から、鎌倉に引っ越す1991年まで、おばちゃんが35歳から50歳までの頃。
 
1998年に僕の本の出版記念会があった時、おばちゃんを招待しようと思って訪ねたら、いなかった。近所の人に聞いても、皆口をつぐんでいる。親戚と言う一人の方が内緒で教えてくれました。町のみんなは、あの人のことに触れたくない。でも青山さんだから、特別に教えてあげる。年老いたご主人を置いて、若いイケメンの従業員と駆け落ちして、町を出て行った、その人とも上手く行かなくて、今は息子さんのアパートに身を寄せている、、、、。招待状を出したのだけれど、来てはくれませんでした(「私なんかが、、、」といった返事があった)。
 
梓みちよさんの訃報から、ジョイナス、鰻屋のおばちゃんへと話が飛んでしまいました。
 
最初に、僕と梓みちよさんは、何の接点もない、と書きましたが、一時結婚されていた和田浩二さんとは、話をしたことがあります。
 
ジョニー・ティロットソンの「涙くんさよなら」映画化(1966年)の時、日活の撮影所でお会いしたのです。とても気さくなナイスガイで、いろいろと会話が弾みました。でも、僕の目的は、ヒロインのジュディ・オングに会いたかったことだったので、彼女はその場にいず、がっかりした気持ちのほうが強かったのです。当時はまだメジャーな存在ではなかった太田雅子さん(後の梶芽衣子)もその場にいたのだけれど、会話したのかどうかも覚えていない。勿体ないことしたものです(和田浩二さんも早くに亡くなられてしまった、、、、)。
 
ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり(いわゆる“三人娘”)、九重祐美子、、、、「和製コニー・フランシス」が「中尾ミエ」なら、「和製ブレンダ・リー」は「弘田三枝子」ですね。彼女は元気でいるのでしょうか、、、。みんな素敵でしたね。
 
梓みちよさんは、突出した大ヒット曲を持っています。1963年の「こんにちは赤ちゃん」。それは、すさまじいほどに大ヒットしました(あや子さんの年代だと、ぎりぎりリアルタイムで知ってるかも知れません)。
 
ジョニー・ティロットソンが、本国に遅れること5年で日本でブレイクしたのが、同じ1963年の「キューティ・パイ」。その後、「ジュディ・ジュディ」「プリンセス・プリンセス」「素敵なガールハント」と、片っ端から本国ヒット曲のAB面を逆さまにしてリリースします。それらのシングル盤(日本キングレコード)の歌詞カードには、全て「梓みちよの“こんにちは赤ちゃん”大ヒット中」という広告が付されていました。
 
ジョニー・ティロットソンの本国2大ヒット曲と言えば、60年の「ポエトリー」と62年の「涙ながらに」。弟分のブライアン・ハイランドは、やはり60年の「ビキニスタイルのお嬢さん」と62年の「涙の口づけ」。
 
全く異なるスタイルの2つの大ヒット曲を持っているというのは強いですね。ジョニーの「ポエトリー」はともかく、ブライアンは「ビキニスタイル~」一曲だったら、何時まで経っても「ビキニスタイル~」の一発屋、と揶揄され続けたことでしょう。
 
「涙の口づけ」(や、その前の「愛しのジニー」「レット・ミー・ビロング・トゥ・ユー」なども含めて)の大ヒットで、ブライアン自身、ずいぶん気持ちが救われたことでしょう。
 
その点、梓みちよも似ていますね。後に、全く異なる曲調の「二人でお酒を」などの大ヒット曲があります。
 
むろん、「こんにちは赤ちゃん」も「ビキニスタイルのお嬢さん」も、素晴らしい歌なんですよ。リアルタイムでは(「こんにちわ~」の梓みちよ、「ビキニスタイル~」のブライアン・ハイランドと)「印」を付けられるのに抵抗は有ったでしょうが、後には、誇らしく思っていたはずです。