社会の窓から

社会の窓を開け放ち、世界の人々と交わろう。

いい日朝立ち 2

別ブログ「青山潤三の世界・あや子版」掲載中の、「ユリ科の話」シリーズは、一回のコラムの概ね前半を「白鵬と大谷(水原一平さんに関する問題など)」、後半をユリ科(狭義)の系統分類と中国および日本での野生種の写真紹介、というパターンで進めてきました。

 

青山潤三の世界・あや子版 (goo.ne.jp)

 

相互に全く関連の無いテーマを同時に載せているのは、何か意図があって、、、と言うわけではありません。単に面倒なので、一括して載せているのに過ぎません。

 

そこで「社会の窓から」を復活するに当たり、前半部のコラムをこちらに移すことにします。

 

今後は原則重複せずに分離していく予定ですが、今回に関しては、「青山潤三の世界」の記事を引用掲載します。ただし、これまでの経緯が省かれることになるので、そこを補佐する為に全面的な追記・再編を行っています。

 

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4月26日は僕の76歳(後期高齢者2年目)の誕生日。客観的に見れば、76歳まで生きることが出来て、特に体に悪いところが無い(痛いとこだらけですけれど)と言うのは、まあ勝ち組(嫌な言葉だけれど)と言って良いのかも知れません。

 

だって、滅茶苦茶な生活を続けて人生過ごしてきたわけですから。体に良いと思われることは一つもやってこなかった(酒と煙草は元々嗜まないけれど)。実際満身創痍で、これでもかというほど理不尽な災難に立て続けに襲われてストレスも溜まりまくり、なのになんとか普通の生活を送っています。まだ標高4000m超のフィールドだって歩き回ることが出来そうだし(かなり辛いですが、笑)。

 

巷では、健康で長生きをするために、選ばれた食品を食べ、定期検診を受け、日々ウオーキングに励み、クーラーをつけて暑さをしのぎ、健康を阻害するリスク排除に躍起になっているように見えます。でも僕のように、それとは真逆の生き方をしてきても、結果は何ら変わらない(むしろ上回っている?)。

 

健康を保つための衣食住なんて、いわばみんな「依存症」に集約されるのだと思います。お布施をしなければ悪いことが起こりますよ、と言った宗教の教えと同様で、オレオレ詐欺と何ら変わりがありません。全ての人々が、資本主義社会の歯車の中に無意識に飲み込まれてしまっている。そしてそのことに気が付かないでいる。それが今の日本の民主主義社会の構造です。

 

資本主義社会は、本来ならば生きていく上に於いて必要なくても良いものを、無意識的な洗脳でもって依存化状態に導き、その流通を正当化させることで成り立っています。

 

教育とは洗脳にほかならないのです。人々は、互いに洗脳し合う(=同調圧力)ことで、全面的な依存空間(“空気”)を作り出します。現代文明は、鴎外の言う“かのように”の世界の上に成り立っているのです。

 

森鴎外 かのように (aozora.gr.jp)

(コム・シィさ。かのようにとでも云ったら好いのだろう-中略-先ず本当だと云う詞からして考えて掛からなくてはならないね。裁判所で証拠立てをして拵えた判決文を事実だと云って、それを本当だとするのが、普通の意味の本当だろう。ところが、そう云う意味の事実と云うものは存在しない。事実だと云っても、人間の写象を通過した以上は、物質論者のランゲの謂う湊合が加わっている。意識せずに詩にしている。嘘になっている。そこで今一つの意味の本当と云うものを立てなくてはならなくなる。—中略-価値あるものは、皆この意識した嘘だ。第二の意味の本当はこれより外には求められない。こう云う風に本当を二つに見ることは、-以下略-、、、鴎外の小説はやたらと理屈っぽいので、全部読む必要はありません、笑)。

 

それを鑑みれば、賭博依存症とか薬物依存症なんて特別な事ではないのだと思います。社会は多かれ少なかれ賭博的要素で成り立っている(そして言わずもがな多くの人は合法的な薬物依存症)ので、グルメとかファッションとかアートとかスポーツとかが許されるなら、賭博と言う行為も、それ自体は何ら問題はないはずです(もとより、大リーグ機構も、合法賭博に頼ることで経済的に成り立っている)。

(ちなみに僕自身は、賭博とか薬物とか、まるっきり興味がありません、けれど否定をするつもりもない)

 

法に触れれば悪人として袋叩きにあい、法の網から逃れたものは、やっていることがどんなに悪どかろうが、正義の民として「悪を叩く」立場に回るのです。

 

法(ひいては選挙制度)や科学(医学を含む文明全般)への過信と驕り、その辺りに、人類の根本的な問題点(例えば幾ら平和を叫んでも永久に戦争が無くならないことなど)が潜んでいるように思います。

 

確かに科学は凄いですよ。留まることなく、とんでもない加速度をつけて発展していく(余りの急速度・急カーブでの上昇故、曲がり切れなくてフェイド・アウトしてしまうのでは、と懸念しています)。

 

科学は、実は魔法なんですね。無限の可能性という素材を、いわゆる科学的手法(魔法と同義)を操って、遂一掘り起こしているに過ぎない。

 

夏目漱石 夢十夜 (aozora.gr.jp)

(第六夜「運慶が~」の話が該当、第一夜~第十夜を通して読んで欲しい)

 

科学が魔法だとすれば、あらゆることが可能になります。可能性は(我々の認識とは桁外れに)無尽蔵なので、宇宙の果てへの到達や、永遠の命の獲得も、早晩実現することと思います。

 

でも、だからどうした、ってことでしょうね。それで満足なのでしょうか。

 

科学の批判も、正義の批判も、ご法度。

 

少しでも大谷選手にネガティブなことを言う人間は許さない…そんな空気に警鐘を鳴らしたい(立岩陽一郎)(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース

いつもながらですが、記事そのもの(極めて真っ当な意見です)よりも、それに金太郎飴的な拒否反応を示す、ヤフコメ民(大衆)のバカさ加減が、情けなくなってきます。

 

香港デモやウクライナ問題、コロナ騒動、、、国民総洗脳状態の許に議論が展開されていきます。少しでも疑問を呈すれば「陰謀論」で抹殺。

 

僕は、誰よりも愛国者であると自認しています。だから、日本の悪い部分について批判します。すると売国奴、となります。誰よりも大谷を応援していると自認しています。だから批判もする。以下同様。

 

大衆がバカなのは仕方がないとしても、有識者とされる人たちのバカさ程度には呆れかえってしまう。いや、バカ(=教育に拠る洗脳完了者)だからこそ、有識者というポジションを得ているのでしょうが。

 

金太郎飴の中にあって、大谷君を極めて良く知るある人(吉井コーチ)が、以前大谷君を表して「彼はジャイアン」と評しました。ジャイアンの定義?は、自分のものは自分のもの、人のものも自分のもの、自分が絶対的な正義で、目的達成のためには、周りのことは考えずに猛進、、、。

 

ネガティブな意味ではないのです。誰にも出来ないことをやり遂げようと、そこに全力を注ぐ。大谷君はそれができる立場に置かれていて、そして成し遂げる能力がある。

 

自分のやりたいように生きることが許されない(かつ本質的に権力崇拝志向の)日本国民からすれば、選ばれた王様である大谷君に全面的に自己投影を行い、正義のヒーローとして崇め称えるのは、当然の成り行きなのかも知れません(アメリカでは“自分のやりたいように生きる事”は当たり前なので、別に付加価値はつかない)。

 

しかし、光の当てる角度を変えれば、評価のほどは違ってきます。

 

例えば、大谷君は、プロ野球の一選手としては、完璧です。しかし、選手個人としてではなく、野球という競技の中の一パーツとして見るならば、必ずしもそうは言えない部分もある。

 

一例。大谷君は、常に努力を怠らず、怪我をしても隠して出場し、全ての結果において突出した数字をはじき出す。

 

一方、全日本人からは、一平氏に並ぶ「悪」と見做されているレンドン選手は、適当に野球に取り組み(野球は人生に於ける最優先事項ではないと公言している)、怪我をするとすぐに引っ込んで、数字的にはロクな成績を残せないでいる。大谷君の対極にあるわけですね。それでも名将ワシントン監督は、一番バッターに起用し続けている(このあいだまた怪我をして休んでいますが、笑)。

 

もちろん契約上の問題もあるのでしょうけれど、野球と言う競技の本質を考えれば、必ずしも大谷君が正しくて、レンドンが間違っている、とは言えない部分もあるのです。

 

全体の(極めてデリケートな)バランスに及ぼす影響を総合的に(大谷君が引き連れる日本の大衆やメディアの存在なども含めて)考えると、±トータルでは、もしかするとレンドンの姿勢の方が、チームの勝利に貢献しているのかも知れません。

 

大谷君の能力、努力、齎された数々の結果が、素晴らしい事であるのは間違いありません。と同時に、別の視点からみれば、大谷君の我儘に結びつくことであり、(それに伴う日本のメディアや大衆が加わって)様々な綻びが生じてくるのです(例えば大谷君がDHを独占していることに対しても快く思っていない人がいるでしょうし)。

 

その綻びは、選手、チーム、機構に、(表に出ないまま深く潜行して)深刻な影響を与えかねません。

 

ある意味、最も深刻な被害者(あえて被害者と表現します)は、水原一平氏なのではないでしょうか?

「大谷のレベルに併せるのが大変だった」

という彼の言葉には、非常に深い意味があると思います。

 

大谷君は自分の事しか考えない(必ずしもネガティブなことではない)。

 

一平氏は、実は周りの事ばかり考えていた(選手たちをはじめとした身近な人々から多くの証言があるも、公表は控えられている)。しかし、彼が置かれた状況を鑑みれば、必ずしもポジティブなことではないのです。彼にはそれを推し進めるだけのキャパシティに欠けていた。

 

そりゃ、何でも許される背景と、努力と、能力を備えた大谷君と、おそらくは思い通りに行かないことだらけだったであろう半生を生きてきた一平氏とでは、世界が違い過ぎます。

 

元来出来損ないのダメ人間だと思う(僕自身の事を当て嵌めて愛情をもっての表現)一平氏は、様々な葛藤(その中には違法とされる行為も少なからず含まれていることでしょう)を繰り返しながら、清濁併せ飲みつつ必死で生きてきた。そこに大谷君の通訳と言う大役が転がり込んできた。

 

水原一平氏が賭博でとんでもない高額負債を背負ったのは、非合法組織によって、「大谷の友達」として狙い撃ちされたからです。

 

賭博云々は、本来なら大した事ではないはずです。皆がやっている息抜きの一つと捉えても良い。それが、結果として、想像し難い額まで膨らんでいった。通常なら有り得ないことなのでしょうが、バックには大谷君の膨大な資金がある。

 

一平氏としては、大谷君に顔向けできない。負債は自分で取り戻すしかない。胴元は、その辺り十分に把握しています。無条件で受け入れる。

 

大谷君は、お金に無頓着(無責任と置き換えても良い)。おそらく身の回りに必要な金額は、無条件で一平氏に委ねていたのではないかと。一平氏は、盗もうと思えば幾らでも盗める立場にあった。

 

大谷君の夢を後押しするためには、一平氏の独断でお金を動かすことが出来る。けれど自分の負債は清算できない。そして、それを上回る、壮大な無駄使いの操作は委ねられている。なんとも皮肉な状況に置かれていたわけです。

 

一平氏は、大谷君にとっての数十億円は端金と認識していたことでしょう。ならば、大谷資金を使って自分の負債を完済することで、違法胴元の呪縛から逃れることが出来るわけで、それはある意味大谷君を守ることにもなる。胴元への無断振り込みは、見方に拠れば委ねられた権利の施行でもあり、窃盗でもあるのです。

 

もちろん、遥かにクレバーな胴元側は、それで納めるつもりはなく、本丸の大谷資金にターゲットを定めます。一平氏は、最後の最後で、大谷君に助けを求めた。大谷君は、それを突っぱねた(僕は、問題が明らかになった時期が結婚発表と重なることに、思うところがあります)。

 

もちろん全て一平氏に非があります。大谷君は法的には潔癖です。でも2人の関係性を考えれば、「無関係」「無視」とはいかないはずです。

 

大谷君は、お金には無関心、と言いながら、とんでもない散財に関わり続けています(全小学校にグローブ、同僚の奥さんにポルシェ、主催者が投獄された仮想通貨の広告塔、1000億円の後払い契約、等々)。本人や崇拝日本人にとっては“美談”ではあるのでしょうが、貧困者からみれば、それらの行為は素直に受け止めることは出来ません。ハワイに豪華別荘を購入する余裕があるのなら、一平氏に手を差し伸べるべきです。

 

今回の事件で、以前はウザいやつ、としてしか認識していなかった、水原一平氏の半生が、非常に興味深く、魅力に溢れている、と言うことを知りました。それに反して大谷君は、普通の人、ただのジャイアンでしかなかった、という“がっかり感”。

 

それにしても、大谷君、昨日(注:4月24日)は2塁打3本とか。162試合換算では87本ペースになります。従来の記録は1931年の67本だそうで、93年ぶりの記録更新が見えてきたことになります。

 

首位打者に躍り出て、全ての部門でトップ争いをしています。

 

一方、得点圏打率が異常に低い(4月23日時点で95位)。打たなければならないところで、まるっきり打てないのですね。このままでは、首位打者(場合によっては三冠王)で且つ得点圏打率最下位という、とんでもない記録を達成し兼ねません。

 

レンドンと真逆のこのシュチエーション、一平氏問題とも、なんとなく被るような気がします。

 

もっとも2塁打量産ということは自らが常に得点圏に進んでいることになり、±すると「チャンスを作る」ことで「チャンスでの弱さ」も帳消しになっている、と言えるのかも知れません。

 

何れにせよ、規格外と言うほかないです。「普通に成り下がってガッカリ」と上に言ったけれど、普通を通り越して悪の象徴でもあります。悪人大好き人間の僕としては、魅力が増したとも考えられます。今後とも“悪のヒーロー”(まだほとんどの人は気が付いていない)大谷君を応援していきますね。

「いい日、朝立ち」 “Good day. Leaving in the early morning to a strange country, far away,,,,,”

加藤登紀子さんの唄に「少年は街を出る」と言う曲があります。

 

ある朝、夜明けに家を出て、見知らぬ国に向かう。

 

そのシュチエーションを思い浮かべると、心が揺さぶられます。

 

そして、それを成し得なかった自分の人生を思うと、忸怩たる後悔が沸き上がってきます。

 

もう一度、少年の頃に戻れれば、絶対に実行するのですが、それは叶いません。

 

時間は巻き戻すことは出来ないのです。

 

でも、一つだけ方法があります。今から実行する。

 

僕は今日(Apr.26,2024)76歳になります。60歳を引けば(笑)16歳。

 

幸い、1964年1月18日(この日にちの説明は後ほど機会があった時に)以降、僕の成長はストップしていて、精神年齢は今も16歳です。

 

体は満身創痍で、資金の目途も全くつかない。でもそれを言ってちゃ何もできません。実行するのみです。

 

僕の大好きな小説に「高丘親王航海記」(澁澤龍彦)というのがあって、そのCondensemilk版を目指します。お供は、ミルク三世とイケメン・ジョージ。

 

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2018年にスタートし、2020年のコロナ禍以降永らく休んでいたブロブ「社会の窓から」を再開します。もうひとつのブログ「青山潤三の世界あや子版」は続けているのですが、内容に沿って随時振り分けて行きたいと考えています。

 

青山(Jun A. Condensemilk)の他に、ミルク三世、イケメン・ジョージも、代わる代わる執筆を予定。

 

『社会の窓から』 2021.8.5

熱中症騒いでるけれど、夏が暑いのは当たり前です。以前より1~2度気温が上がった、、、そりゃそうでしょう、みんなが冷房使ってりゃ上がります。
 
コロナの死亡者が激増、、、増えてないでしょ!何でちゃんと調べて示さないのか(昔から人は死にます)。まあ、オリンピックは茶番ですが、、、。
 
どれもこれも、「集団性自己中」「集団的洗脳」であることに、気が付いていないのだろうか?

「コロナ騒動」一周年に際して/マスクとワクチンが人類を滅ぼす “無意識強要同調空気”への恐怖

今日で『「コロナ問題」問題』発生、ちょうど一年になる。
 
僕は、問題発生以来、基本的にはずっと同じことを書き続けている。事態は、概ね僕の言っている通りに進んでいるようである。誰も素直に認めようとはしないが、、、。
 
当初から僕の意見は同じである。一言で言えば、「俯瞰的な見方をすべし」「空気に取り込まれないように」ということ。現在の社会の中で確立されている「体系」に沿って対策を進めるだけでは、解決には至らない。マスクもワクチンも解決策ではない。それどころか、長い目で見れば、人類の滅亡に繋がる、と本気で思っている。
 
短絡的な答え(世論・空気の流れ)に基づいてマスク社会が構築されている状況を、ただやみくもに肯じるのではなく、背景を俯瞰的に見つめ直さねばならない(それは、個人にとっても、人類全体にとっても、少々苦しいことではあるかも知れないが)。
 
個人が(あるいは世間が)纏っている感情的な部分を削ぎ落とし、純粋に客観的な次元に立ってのみ見たならば、いわゆる「コロナ」は、地球上に存在する無数の要素(“良きもの”も“悪しきもの”も、その全てが人類に対しての“脅威”と成り得る)の一つが、姿を現した(見つけた)のに過ぎない。敵として、それから逃げる、それを壊滅する、、、そのことを続けている限り、この問題は永遠に解決しない。
 
と、ずっと同じ意見を、バカの一つ覚えのように一年間言い続けてきたわけで、その結果、メジャーなメディアからは、 “バカじゃないかこいつ?”みたいな感じで見放されてしまうに至っている。
 
例えば、「現代ビジネス」は、2017年から20数回続けたあと、「沖縄」関係のシリーズを始めようとしたところで、突如打ち切りにされてしまった。その後は(2019年6月から2020年6月にかけての一年間に)断片的に、次の5記事を掲載した。そして最後の掲載の翌日から、全く連絡も取れなくなってしまった。
 
* 「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感/ただの「同調圧力の象徴」になっていないか(2020.6.8掲載)
 
*そもそもなぜ中国・武漢は「新型コロナの発生地」になったのか?/自然から人類への警告の可能性(2020.3.22掲載)
 
*香港デモで「正義の香港市民」に暴行されかけて抱いた悲しみと違和感/「正義」とは何なのか?(2019.8.4掲載)
 
*私が目撃した「天安門事件」あの日、中国の若者に訊ねられたこと/「中国は、日本みたいになれるかな。。。」(2019.6.9掲載)
 
「一年間」と言ったが、(僕の取り組みの)流れは、その半年前の「香港デモ」から続いている。そこで僕は、(香港デモ参加者・群衆の)マスク(に対する日本の大衆の反応)への批判を行なった。それは(今僕が言っているところの)「コロナ」マスクへの批判と無関係ではなく、本質的・大局的な部分で、強く繋がっている。ある意味では、「香港デモ」と『「コロナ問題」問題』は、直結しているのではないか、とも思っている。そのことについては、追々詳しく述べていく予定である。
 
僕は、「コロナ」への対応に際して、マスクの常時着用を否定する立場をとっている。ただし、否定の根拠は、他の否定派の人とは異なる考えに基づく。「経済優先」か「命優先」か、そんなことは些末的な問題なのである。
 
「人の命」と「経済」どちらに重きを置くかとすれば、単純に考えれば前者なのであろう(特定の範囲の人々ではなく、全ての人の命)。
 
と同時に、もとより、命が最優先(生きてさえいれば何でも出来る)とも思ってはいない。もっと大事なものがあるはずだ(それに関しての具体的な意見についてはこれまでにも度々述べてきたのでここでは割愛する)。
 
「経済優先」で言えば、むしろ経済に軸を置く社会構成など、この際一度破綻してしまった方が良い、と心中では願っている(経済が回復したところで「コロナに翻弄される弱者」よりも更に「最下層の貧民たち」へ直結などはしない)。
 
そしてマスクの着用は、極論すれば(他の世の中に存在する様々な事例の相互要因の関係性と同列に扱えば)、経済の回復とも命の保証とも無関係である。
 
マスク社会のもつ“恐ろしさ”は、もっと別のところにある。そのことを、出来得る限り理論的に考察し、より多くの人々に伝えるべく、一年がかりで発信していくつもりでいる。
 
誤解のないように、いくつかの事柄を箇条書きで示しておく。僕の想いは、以下に記す前提の上に成り立っている、ということを御理解いただきたい。
 
まず表題。「コロナ問題問題」と「問題」を重複したのは、むろん記入ミスではない。コロナが問題なのではなく、「コロナ問題」が「問題」なのだ、ということである。
 
「コロナ」の語を安易に使用することは、この「問題」を間違った方向に導くだけである。本来ならば、もっと正確な言葉で表記せねばならない【「青山潤三の世界・あや子版」遺書 4(2020-07-31 08:32:06 | 香港デモ、新型ウイルス、日記)】。ただしここでは便宜上(いわゆる)「コロナ」として表記していく。 
 
「コロナの脅威」は僕も十二分に認識している。そのうえで(別の角度から見れば)「ただの風邪である」ということも事実だと考えている(“風邪”は、非常に恐ろしい病気だ)。
 
ほぼ一貫して、日本の立場を批判している(政府に対しても大衆に対しても)。それは、僕が誰よりも愛国者であるゆえにである。また、概ね中国の味方をしているが、中国がとんでもない酷い国であることは、誰よりも良く知っている。むろん中国共産主義は容認していない。
 
科学(あるいは文明)を批判・否定している。それは、科学「的」な方法論や方向性への過信に対してである。科学そのものには希望を持っている。
 
上記したようにマスクを拒否しているが、僕自身は、臨機応変にその場その場でマスクを着用している(そうすることが正しいとは必ずしも思っていないけれど)。
 
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僕が言わなくたって、多くの人々は、うっすらと気付いているはずだ。どこかおかしいんじゃないかと。我々は、(人類の歴史の長い間)「何かに」洗脳されてしまっているのではないか、と。
 
目を覚まして貰いたい。「コロナ問題」の意味するところは、単に「コロナ」の問題ではない、ということに気付いて欲しい。
 
以下、一年前にスタートした「コロナ問題」の動きを、改めてなぞっていくことにする。一年という時間をおいて再検証していくことにより、我々が今何をしている、どこに向かおうとしているかを、より「客観的」に俯瞰することが可能になってくるのではないかと考えている。
 
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2020年1月16日。僕は中国広州郊外のボロアパート*にいた。
*ボロアパート=想像を絶する貧民窟に存在(賃貸し月5000円、部屋の中は埃と悪臭にまみれ、水道の蛇口からは黄色い水がでる)。ちなみに周辺は(いろんな意味で)想像を絶する超高級住宅街(超豪華な住宅が次々と建てられ、その何割かは人の住まぬまま朽ち果てていく、僕の知人は一億円余で購入)。
 
同じころ、別の知人のK氏から、ユーチュバーになることを勧められ、さっそくその翌日から、モニカ*の携帯電話を使って、少なくても一年間、毎日発信していく決意をした。しかし、全く同時に「コロナ騒動」が発生し、第一回目だけの発信に終わって、今に至っているわけである(日本では僕は携帯電話を持てない)。
*モニカ=中国人のアシスタント。大学卒業後、10年間にわたって渾身的に僕を手伝ってくれている(給料は払っていない)。5年前、中国人男性と見合い結婚し、一女がいる(今年2人目が誕生予定)。
 
何度か書いてきたことだが、最初に「湖北省武漢発生の新型コロナによる人-人感染が証明された」というニュースが報道されたとき(2020年1月16日、第一回目のユーチュブ発信の前日)、その記事と並んで、同じ湖北省の長江に棲む「世界最大の淡水魚の絶滅を認定」という記事が載っていた。僕から見れば、後者のほうが遥かに重大なニュースと思えたのである。
 
むろん、(僕の想いとは逆に)、一方は忘却、一方は「人類未曾有の大騒動」へと、正反対の方向に進んでいくわけだが、僕にはそのことが、この問題(いわゆる「コロナ」)の本質の全てを象徴しているように思えてならないのである。
 
僕自身のことを少し述べておく。本職は「ネーチャー・フォトグラファー」である。と共に、僕の守備範囲(研究対象)である幾つかの生物群(主に蝶と蝉、植物では野生アジサイなど)を調べている。系統分類(学)、生物地理(学)という分野に関わりがある。
 
「研究」とか「学問」とかいう言葉は嫌いなので、使わない。「教育」とか「知識」とか「答え」とか言った言葉も嫌い。むろん「名誉」にも全く興味はない。「学問」としてではなく、ひたすら「実態を知る」ために取り組んでいる。本気である。素人ではあるが、趣味では断じてない。
 
何度も言ってきたように、僕の姿勢は、普遍性の追求であり、「マニアック」な人達とは対極に位置する、と考えている。生き物コレクターは(野草の栽培とかも含めて)大嫌い。もとより、ペットや園芸植物などに対しては、全く興味も知識もない。
 
「趣味」といえば、1960年代初頭を中心とした「アメリカン・ポップス」、および主に明治20年代の「明治文学」。これは紛い無き趣味である。こちらのほうは、マニアックといわれると嬉しい(本当にマニアックな人達は凄いので、同列に語ると失礼だが)。
 
ただし、興味の根源は同じところにある。
 
「事実は一つではない」「正解はない(それを求める努力は否定しないとしても)」
 
それを「一つに」決めつけようとする「空気」に対する危惧。結果云々ではなく、そこに向かう(無意識に、しばしば一気に為される)「空気」を、やみくもに肯定することに対する、全否定。
 
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野生生物調査に於ける僕のフィールドは、中国大陸。むろん、湖北省も含まれる。本来の目的は、日本の生物相の成り立ちを知ることである。日本を愛する日本人の一人として、より深く日本を知るために、その「マザーランド」ともいえる中国の生物相を調べているのである。
 
それから沖縄(「琉球」あるいは「南西諸島」というべきか)。
 
去年の今日、「中国湖北省武漢発祥とされる新型コロナウイルスの人-人感染」が初めてメディアで報道された。その半年前に、僕は「香港デモに於ける“マスク”の位置づけ」に関する記事を、メジャー・メディア(「現代ビジネス」)に発表した(敢えて「メジャー・メディア」と記したのは、自分のブログには、常時そのことを書き続けているので、我彼を区別するためである)。
 
その「香港デモに於けるマスクの位置づけ」の流れで、「コロナウイルスに於けるマスクの位置づけ」も書いているのである。誰もそんなことを結びつけはしまい。偶然だとしか考えないであろう。僕は一貫して、同じ流れの中で見つめている。
 
上記したように、2017年夏から、毎月一~二回続けていた「現代ビジネス」への掲載コラムは、一昨年(2019年)の正月になって、突然打ち切りになってしまった。その数回前のコラムに、「沖縄(琉球/西南諸島)はどこにある?」というテーマで10数回の記事を書く、と読者に伝え、掲載を始めたばかりなのに、、、。
 
しかし、6月には「天安門事件30周年」の記事を書かせてくれ、その直後に勃発した「香港デモ」についての写真取材を、編集部の名の許に発表、8月になって、やっと自分の記事(「香港デモに於けるマスクの意味」)が掲載された。反響は結構あった。殊に香港&中国のメディアでは大きく取り上げられ、複数の翻訳が成され、香港の出版社での単行本化(欧米の作者たちとの共著)もなされた。しかし、日本のメディア(殊に肝心の「現代ビジネス」自体)からは全く見向きもされず、以降の執筆は許されなかった。
 
そして昨年1月に、「コロナウイルス問題」が発生。僕はリアルタイムで中国に滞在していた。現場の情報を伝えたかった。しかしなかなか書かせてくれない。3月になって、やっと「ある視点からの記事(武漢発祥の背景にあるもの)」が採用された。6月には、「コロナに於けるマスクの違和感」が掲載された。それ以降、編集部とは連絡がつかなくなり、出入り禁止状態になっている。
 
僕の文章が下手くそで、思考能力に欠け過ぎる、要するに余りに幼稚である、ということは、自分でもよく分かっている。しかし、その僕の考え方や、文章表現を喜んでくれる読者も、少なからずいるのである。
 
でも、メディア(現代ビジネス)の側からすれば、そのような読者の存在は、何の意味もない。つまり、僕の記事は「“現代ビジネスとしてのクオリティ”に達していない」ということである。所詮、巨大マスメディアに、僕ごときが逆らうことは不可能なのである(本人としては、別に逆らっているつもりはなく、結構顔色を窺いつつ、かつ自分の考えを素直に表して行こうとしていただけなのだが)。
 
というわけで、(「香港デモ」から継続する問題としての)「コロナウイルス問題」の一年間を振り返りつつ、今に至る道筋を、改めて辿っていこうと思う。
 
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時間が来た(Wi-Fi発信できるスタバなどの施設の利用時間が3時間短縮)ので、以下は端折って(概ね箇条書きに)記す。
 
「香港デモ」も「コロナウイルス問題」も、突き詰めれば、「民主主義の正義」と「共産主義の悪」という構図の上に成り立っている。僕は、必ずしもその理念を否定はしない。しかし、実相は受け入れがたい。「正義のためになら何をしても良い」と言わんばかりに、あらゆる手段を使って「民主主義の正義」を世界に発信する。
 
香港デモに引き続いて、「武漢発祥」の「新型コロナウイルス」が世界を駆け巡ったのは、ある意味偶然ではないのかも知れない。穿った見方を承知で言えば、「香港デモ」勃発半年後、(中国共産党の支配下にあるとされる)香港警察への攻撃が手詰まりとなり、敢えて“武漢”の「箱」を開けた。
 
本来は、世界に向けての中国攻撃のみが目的だったのが、「パンドラの箱」を開けてしまったために、収拾がつかなくなってしまった。いや、もしかすると、“筋書き通りに”かも知れないけれど、中国はしぶといと思う。そう簡単に思惑通りには事は運ばない。案外、利は中国の側にある気もしないではない。
 
これは皮肉で言うのだが、日本の大衆は、共産主義下の体制を(全く無意識的に)望んでいるのではないかと、ふと思ったりする。すなわち、「大衆が望むコロナへの対応」を、「力」に代弁して貰いたい、無意識のうちにそう望んでいる。
 
怖いのはコロナじゃなく、人間の意識だと思う。それは正義(空気と同義語)であり、異質の排除である。
「無意識強要同調空気」「合法的な洗脳」
 
「事なかれ主義」「自己保身」「取得権保持のための異質の排除」
 
それが(日本発で)世界に広がり、世界中が「日和見」の中に置かれている、、、、。

「私(漱石じゃないです、僕です)の個人主義」感

このあと、重要な記事を発信するので、ぜひ読んでくださいね。今それを書いてる最中なので、それがアップされるまでの穴埋め記事です。
 
マスク集団怖い!!!
(特に誰もいないところでマスクしてる人)
 
考えてみれば、もとより日本人はマスク好きなんですね。
 
自己保身。みんなが揃って自分中心(西洋の“攻める個人主義”ではなく“取得権保守”)。それが標準となると、そこからはみ出した“自己中心でない考えや行動”は、集団となった自己中心社会からは、自己中心と見做されてしまう。
 
「隠す」ことに喜びを覚えて(正義を求めて)いるのだと思う。
 
「中国人はお金に汚い」。隠さないから日本人にとってはそう思われるわけで。
 
ともかく、日本人は、以前からマスクが好きです。顔隠してれば、楽なんですね。今(中国など一部の「邪悪国家」を除き)世界中の国々が、日本の「楽ちんな姿勢」(責任逃れ/自己保身)を見習おうとしているように思えます。

 

遺書 99

↓「違和感」といえば、違和感ありまくりの記事です。
 
性的画像 ビーチバレーの苦悩 - Yahoo!ニュース
 
Uqg…さん
ビーチバレーに限っては同情しないな~、、
もう少し露出を控えたら?恥ずかしくて観てられないわ。なんであんな格好する必要有るんだろう。って普通に思いますよ。
 
milk
コメ主(Uqg)さんに同感です。男性ですが、気恥ずかしくなって、見ていられないです。どうしてあんな格好で競技をやらねばならないのでしょうか?確たる理由があるならばわかるのですが、、、。あと、繰り返し使われている「性的」という言葉の意味が、もう一つよく分かりません。あえてその恰好を選んでいるのならば、自ら「健康的」と解釈したほうが良いのではないでしょうか?
 
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「自粛要請」はおかしな日本語と指摘 両立しない言葉? - ライブドアニュース (livedoor.com)
 
どう考えても、おかしな日本語だと思いますね。でもそれが「正常な日本語」として認められている(皆おかしいとは思わないでいる)ところが、今の日本の現状を如実に表していると思います。

遺書98

前回記事、1月16日、コロナ報道一周年に合わせて「遺書第100回」にするつもりで、逆算して適当に「98」としていたのだけれど、あや子さんがちゃんとチェックして、「97」に直してくれていました。それで、今日もうひとつ「98」を追加しておきましょう(笑)。
 
三世との、ここ数日のやり取りが結構面白かったので、それを載せます。
 
【三世】
>愛は大事だと思いますが、ジョン・レノンとオノ・ヨーコには違和感を感じてしまいます。
↑注:何の脈絡もなくこんなメールが来たので、
 
【青山】
>違和感感じまくりです。あれは愛じゃないです。
 
【三世】
>違和感の理由を教えてください。
 
【青山】
>たくさんあります。
>スタバもイオンも8時閉店(あと3分)なので、今日は帰って寝ます。
>あいつらは偽物の愛とか平和です。
>その話題は、明日また。
 
【三世】
>明日待ってます。
>ジョージの陰謀論的にいえばビートルズ時代からユダヤによる芸能界のコントロールが始まったそうです。
 
【青山】
>そのとおりです。
>たぶんジョージ(ハリソンではない身近なほう)の方が、ジョン・レノンより才能あると思います。
 
【三世】
>昔から世の中がみえている青山さんはすごいと思います。
>ジョージもすごいと言っていました。
↑注:褒めすぎ。
 
【青山】
>「ビートルズの正体」みたいなこと書くと、本一冊分になってしまいます(材料は山ほどあるけれど僕にはそれを纏める能力がない)。
>パンドラの箱を開けちゃうと大変なので、閉めたままにしときましょう。
>ちょっとだけ言います。
>ジョン・レノンは、いわゆる「いかにも」な人です(顔みりゃ分かる)。大衆は「いかにも」に弱いですね。すぐに騙されます。
>ビートルズもそこそこ良い曲は作って(あるいは歌って)います。でも、特別なわけではない。
>「いかにも」の空気と、力を持つバックのおかげで、大衆の洗脳に成功したのです。
>ジョン・レノンに才能があるとすれば、その「大衆を騙す」能力でしょうね。
>オノ・ヨーコは言うに及ばずです。彼らの愛は単にHしてるだけで、他は空っぽです。
>コロナと同じです。ジョン・レノンは、マスクみたいなものです。
 
【三世】
>たしかにジョン・レノンはマスクですね。
>オノ・ヨーコと共にすごい薄っぺらさを感じます。
>海外(特にアジア以外)に住んでる、外国人と結婚してる日本人女性が嫌いです。
>変なプライドを持っていて、大体ブスです。日本で拾い手が見つからず、日本人マニアのブス専外国人をゲットしている感が凄いします。
 
 
【青山】
>僕もそう思いますね。
>三世は例外的に素敵ですが(お世辞じゃないですよ)。
 
【三世】
>ジョージも、ジョン・レノン、ビートルズに関して青山さんの言う通りだと言っています。
>ビートルズの曲は心に響かないとも。
>ただのユダヤの操り人形だったんかもしれないです。
 
【青山】
>ビートルズを最初に見出したのは、僕の神さまであるベルト・ケンプフェルトです。ハンブルグのライブバーの地下。その時の名前は、トニー・シェルダン&ビート・ブラザース。
>ケンプフェルトが目を付けたのは、ボーカルのトニー・シェリダンとグループリーダーのステュァート・アトクリフでした。それでイギリスに戻って、プロヂューサーのジョージ・マーティン、マネージャーのブライアン・エプスタインのもと、ビートルズとして再デビューします。上記2人の操り人形として。ステュはその直前に亡くなり、トニーは(リンゴの前のドラマーのピート・ベスト共々)メンバーから外されてしまいます。
>イギリスでは、62年からメジャーになります。しかしアメリカでの反応は全くない。イギリスでの大ヒット曲も、全然無視され続けてきました。63年夏になって、イギリスでのNo.1ヒット曲「フロム・ミー・トゥー・ユー」が、やっとビルボードの116位にランキングされます。しかし次の「シー・ラブズ・ユー」は(リアルタイムでは)チャート圏外。
>そこで、(詳細は略しますが)上記マーチンやエプスタインを中心に、裏の勢力?が集結して、大プロジェクトをうった。それがケネディが暗殺された63年秋のことです。
>翌64年1月18日付けのビルボード誌の84位に「抱きしめたい」が初登場します(ジョニー・ティロトソンの最後のトップ10ヒット「トーク・バック・トレンブリン・リップス」がベスト10から滑り落ちた週)。
>そして、3週間後にNo.1に上り詰め、更にベスト5全部をビートルズの曲が独占し、ホット100に一度に12曲を連ねます。
>アメリカ中が、大狂騒の中に包まれ、「文化」の基準が切り替わってしまうのです。ちなみに、アメリカ中のラジオ局が、朝から晩までビートルズの曲をかけ続けた中にあって、カルフォルニアのラジオ局だけは、ビーチ・ボーイズの曲(「ファン・ファン・ファン」)を一日中かけ続けた、という伝説が残っています。
[付記]
>僕は、ビートルズアメリカ上陸寸前の、1964年1月4日に、神戸元町の大蓄レコード店で、ビートルズの曲を3枚買いました(確か「抱きしめたい」「プリーズ・プリーズ・ミー」、およびトニー・シェリダンが歌ってクレジットは「ビートルズ」になっている「マイ・ボニー」)。
>おそらく、日本の一般市民としては、最初にビートルズのレコードを買った一人だと思います。

今日も東京は快晴です/遺書98(番号は適当)

東京は今日も、雲一つないピーカンの快晴ですね。
「都心大雪情報」どこに行っちゃったのでしょう。
 
同じこと書くの三度目ですが、天気予報が当たらなくなった、いや、正確には、(結果として)「予報」することを放棄してしまっている。考えてみれば、何年か前からの傾向です
 
大きな自然災害が起こった時、予報できていなければ、強く叱責されます。よって、常に、同じこと「脅威への煽り」を繰り返していれば、致命的な失態からは免れるのです。
 
「天気予報」に関しては、それもありとポジティブに捉えても良いのでしょうが、世の中全体が、そのようなシステムの中で回っているように思います。
 
「責任逃れ」「自己保身」「異質排除」「既得権保守」、、、僕の言う「無意識強制同調空気」も同様。
 
今回(いわゆる「コロナ」)は、「パンドラの箱」を開けちゃった(あるいは透明人間を見てしまった)わけで、収拾がつかなくなってしまっているのです。
 
「パンドラの箱」は開けない(「透明人間」の存在は敢えて確かめようとしない)。それが日本人としての心構え(君子危ゆきに近寄らず)なのではなかったのでしょうか?
 
よしんば開けて(見て)しまえば、そこから一気に湧出した「答えの出ない脅威」から、徹底して逃げる(マスク)か、徹底して叩き潰す(ワクチン)か、脳がないわけです*。
 
「パンドラの箱」「透明人間」を見くびってはなりません。所詮、我々が相手に出来る「敵」ではないのです。愛を持って、仲良くすることですね(そりゃあ、大変にハードな事ですよ)**。
 
まあ、彼らと仲良くしてると、人類大衆からは仲間外れにされちゃうのでしょうが。
 
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*「パンドラの箱」を敢えて開けたのは、「中国湖北省武漢」がキーワード。「香港デモ」からの流れです。
 
**本来、夏が暑いのも、冬が寒いのも、当たり前だし。 

遺書96(数字は適当)

昨日は嬉しいことがありました。スーリンからメールが来た。三か月ぶりです。まあ、この数年は、2~3月置きぐらいしかメールのやり取りしてないので、今回が特別ということではないのですが、しばらくメールがこないと、心配してしまいます。娘が三人(中国2ギリシャ1)もいると、心配事が尽きません(笑)。
 
まあ、それはそれで、、、そう、何というか、人生に潤いを与えてくれているとでも思えば、そうですね、有難いことなのかも知れませんね。
 
ちなみに、プロ野球の試合の勝利のお立ち台に立った外国人選手のヒーローインタビューの第一声は、日本語の“そうですねぇ~”から始まるのが、最近の“お約束”になっているみたいです(阪神だけかな?)。
 
So,,,,
 
日本語と英語で、発音も、意味も、ニュアンスも、強さの程度も、広がりの範囲も概ね重なる単語が、“そう”と“So”。
 
そんなことも加味して、“So”は僕の好きな言葉です。英訳するときも、文章のどこかに、適当に、やたらに差し込んでいます。
 
翻訳といえば、、、、語学力の乏しい僕にとっては、地獄そのもので、、、。
 
ここんところ、起きている間の7~8割は、「中国の野生植物」に取り組んでいます。得意分野=アジサイ、キイチゴ、カエデ、タンポポなど=でないところの、なおかつ一般受けしそうなグループを優先、ということで、シャクナゲ(ツツジ) をひとまず終えて、サクラソウを整理しているところです(このあと、バラとかユリとかリンドウとか青い罌粟とかを予定)。
 
もっとも、原版写真(シャクナゲのセレクト分で2500枚)をモニカにメール送信する作業が大変で、、、マクドやイオンのWi-Fiは速いスピードで送信できるのですが、マクドはWi-Fi自体が繋がらないことが多いし、イオンも色々と問題が山積みで、たまにしか利用できません。結局、一番確実なスタバ主体ということになるのだけれど、スタバは(Wi-Fi自体は確実に利用できるとしても)データの転送が、絶望的に遅い!(マクドやイオンの数10倍の時間がかかる)。いやもう、精神的にメゲてしまいます。
 
膨大な原版写真を整理→重さとか画像状態とかを調節→それをセレクトしてモニカに転送。と共に、一部の写真をワードに張り付けてテキストを作成、中国語に訳すための下訳として、まず自分で英語に翻訳。
 
この作業が、心身ともに疲れます。モニカは、「調節しなくてもそのままでいい」「英訳しなくても日本語のままでもいい」と言うのですが、、、ついつい不安になって、というか、念のためにというか、「画像調節」と「文章翻訳」に取り組んでいるのです。
 
写真の整理については、どれを選ぶか、あるいは選んだ写真をどのような基準で調節していくか、、、、実際の作業自体よりも、「それを決めること」のほうに、多大な時間労力を使ってしまいます(だから、余り考えずに、より多くの写真を送っている)。まとめて送る方法を知らないので、2500枚、アナログ的手法で1枚(実際は7~8枚)づつ送信しています(今日もついさっきまでその作業をしていた)。
 
文章(解説、あるいはメモ)の翻訳のほうも、辛いです。語学力皆無の僕には、チャレンジ自体が土台無謀なのかも知れません。例えば、冠詞の使い方とか、動詞の活用とか、まるで分らない。そりゃもう酷いものです。僕の能力でもってしては、正しい英語にしようとすればするほどドツボに嵌ってしまいます。
 
開き直って、「“ちゃんとした英語”にする絶対的な必要があるのだろうか?」とか、考えたりもします。
 
Send me the pillow that you dream on だって、ひどいのになると、Send me pillow dream on とかまで省略されちゃってる(日本じゃなく向こうで)。それでも、たぶん言わんとしてることは分かるのかも。向こうの人たちは、大して気にしてないのかも知れません。
 
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こんなことを、ふと思いだしました(共に40年以上昔のことですが、その時の“雰囲気”みたいなものを鮮明に覚えてる)。
 
昔、確か初めて北海道に行った時のこと。上野から青森に向かう夜行列車の中で、すぐ近くにいたおじさんたちが、夜通し喋り続けていました。僕は、その人たちを、(日本以外の)アジアのどこかの国の人、と思い込んでいました。朝になって青森に着いて、軽く挨拶を交わしたときに、彼らの喋っていた言葉が、実は日本語であったことが分かりました。
 
やはり、ずっと昔のこと。初めて屋久島に通いだした頃です。屋久島の比較対象地域として、周辺地域(種子島、三島列島、トカラ列島など)にも度々訪ねました。大隅半島南部の「辺塚」という村(稲尾岳の南麓で「ヘツカリンドウ」の名の起源)にも、何度か行きました。村に一軒の旅館があって、そこの若奥さん(たぶん)が、実に僕の好みのタイプで、、、まあ、それはともかく。
 
ある朝、目覚めると、何人かの人たちが喋っている声が聞こえました。「外国人も宿泊してるんだ」と、夢うつつに思っていました。声の主は、若奥さんや、その家族の人たちでした。僕としては、100%外国語であると信じていた。でも、紛い無き日本語だったのですね。むろん僕との会話は、「普通の日本語」を使っていたのですが。
 
いや、どう考えても、日本語には聞こえません(僕の聴覚が可笑しいのかも知れんですが)。青森の端っこの村の人と、鹿児島の端っこの村の人との間に、会話は成り立つのでしょうか?むろん成り立ちますね。そのために「標準語」があるわけですから。でも、互いに地元の言葉で話すとしたら、絶対に意思の疎通は出来ません。そこに、「教育」や「文明」(その象徴の一つが共通言語の確立とその浸透)が助け船を出し、実質的な「単一国家」と成り得ているのです。
 
でも、それぞれの地方の人同士は、それぞれの独自の言葉で会話している。一つの国に、互いに理解不能な言語が何通りもあるのは、いちいち面倒だし、全部「標準語」にしてしまえば良いと思うのだけれど、そうもいかないのでしょうね。より多くの人とは交われないけれど、(それらの世界では成し得ない)より深いプリミティブな人間関係の構築。僕が、その若奥さん(?)の気を惹こうと何か話し掛けるとしても(無論そんなことはしませんでしたが)、深い部分での意思の疎通という点では、絶対的なハンディがあるわけです。
 
もちろん、どちらが良いか、という問題ではありませんね。一つの言語を完全に極めることと、全てをカバーすることとは、目的の方向性が全く異なります。正しくローカルでプリミティブな方言。正確な標準語(“世界”という範囲に置き換えれば国際語=実質英語)。それぞれの状況下で、どちらかを、より的確に使うことで、より分かり敢える範囲が広がる。
 
教育を受け、自己の成長に徹する。プリミティブ(愚鈍と置き換えても良い?) 維持に徹する。むろん両方を自家薬籠中に出来れば、それに越したことはないです。どっちも、(正反対の立場ですが)「一か所への集中」ということでは同じなわけですから。
 
ちょっと、何言ってるのか分からなくなってきましたけれど、面倒なのでそのままにしときます(まあ、痴ほう症老人のプラットホームでの独り言ということでご容赦ください)。
 
いずれにしても、僕は、どっちの能力もないみたいですね。どちらの方向に対しても極めて中途半端で、いわば適当に「ごちゃまぜ」です。
 
圧倒的に下手な中国語でスーリンと会話し、圧倒的に下手な英語でモニカと会話。でも、少なくても、僕にとっては、日本語で自由な会話交流が可能なはずの対日本人よりも、良い関係が築けている(単に人徳の欠如、ということなのかも知れないけれど、笑)。
 
自分のこと以外でも、お手本があります。ギリシャに住む三世だって、相当に出鱈目な英語で、ジョージと(たぶん誰よりも深い部分で)コミュニケートが取れている。
 
それらの現状に満足して良いとは思っていません。でも、それでも良いかも、とは思っています。
 
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蛇足。言葉の意味の持つ「標準」の基準は、時代と共に変わっていくのだと思います。
 
スタバで、一日中、スタッフとお客さんのやり取りを聞いているわけですが、、、。最近、気になって仕方がない言葉。
「大丈夫です」。スタッフ側からもお客側さん側からも、その言葉が発せられる頻度が、余りに多いような気がするのです。いや、どこが変なの?気になるほうが可笑しい、と言われればそれまでなのですが。
 
客:コーヒーください。
店員:食事は大丈夫ですか?
客:大丈夫です。
 
本来ならば、
客:コーヒーください。
店員:食事は必要ですか?
客:いりません。
ではないかと思うのですが、、、。
 
本来「O.K.(=前向き)」の意味を持つ言葉が、「NO」の代用にされてしまっているような気がする。
 
「ノー」とあからさまに言っちゃいかんのが(あるいは「必要かどうか」をストレートに相手に尋ねないことが)日本の礼儀なのかも知れません。いつの間にか、それが「標準」になっているわけです。
 
もっと端的なのは、「よろしかった」。1000円でよろしかった(よかった)ですか? なんて言われても、よろしいも何も、僕の中の標準で真面目に反応すれば、過去形で対されることに、どんな思惑が含まれているのか戸惑うしかないのだけれど、それが標準になってしまっているのだから、(戸惑いは無視して)素直に溶け込むしかありません。
 
「学問」「教育」「空気」一体になって、大衆の間で力をもった「基準」が、そのつど「標準」となるのです。
 
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話がまた逸れ過ぎました。
 
で、いきなり結論に持っていきます。
 
「メモや解説の翻訳」についても「写真の整理や調節」についても同じことが言える(全く別次元下の同質要素)
のではないかと思うのですが、、、、。
 
言語にしても画像にしても、「焦点(目的とする部分)がぴったり」という必要性はあると思います。でも、それが成された瞬間に、周辺は消える。写真の色合いや鮮度などを調節しようとして、その時は“よし、これで決定!”と思っていても、後で改めて見直すと、最初にあった良さのどこかが、欠けてしまっている。
 
柔らかさ、暖かさ、広がり、、、のような部分と、鋭さ、透徹、集中、、、のような部分の相関性。
 
言葉を統一・固定することで、より多くの世界の共通認識が為されるわけですが、対象が明晰になればなるほど、広がり、曖昧さ、付随する“一見無駄に思える”部分、、、いわば「動き」のようなものが失われていく。
 
僕は、必ずしも「曖昧であること」を「よし」としているわけではありません。統一性の構築・基準の追求は、必要だと思っています。でも、それをもってのみ「正解」「正義」を導き出すことに対しては、どうしても拒否反応を示してしまいます。
 
体系的に、方法論に沿って、理路整然と進められていく、「教育」や「文化」に対する過信を、最近の日本社会の中に感じてなりません。
 
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太陽と暗闇は共存しうる(結論を言えば、してると思いますが)のでしょうか?
考えてみれば、地球に「昼」と「夜」がるのは、凄い事なのかも知れません。
 
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僕が大嫌いなのは、例えば、ローリング・ストーンズ誌(注:ローリング・ストーンズは大好きです)のような方向性、、、、ただただ空気に乗っかって信望する、実は自分たち自身が「カウンターを受けるべきカルチャー」になってしまっていることに気が付いていない、カウンター・カルチャーの民。
 
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ブライアン・ウイルソンとマイク・ラブがいてこそ、ビーチ・ボーイズです(カール・ウイルソンが亡くなった後、アル・ジャーディンが「カールのいないビーチ・ボーイズはビーチ・ボーイズではない」といって実質解散に至ったことは、また別に考えましょう)。
 
ずっと後、ビーチ・ボーイズの呪縛から解き放たれて自由になったのであろうブライアンに、日本の某音楽評論家が、このような質問をしました。 
「改めて今、(作詞作曲の)コンビを組むとしたら、誰を選びますか?」
ブライアンは即座に「マイク」と答えました。
質問した日本の(ブライアン信者の)その音楽評論は、(彼からすればまさかの答えに)「そ、それは無いんじゃ、、、」と、戸惑ったそうな。「空気」に乗っかるだけの大衆の多くは、その程度の感性しか持ってないということでしょう。
 
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辻邦夫(たぶん生涯かけて「現象を明確に切り取り表現する」ことに尽くした人)と北杜夫(たぶんその対極)は、非常に仲が良かった。
 
辻邦夫さん、、、、、。
 
こんなこと(いわば“犯罪行為”の自慢と変わらない)は、公に書いちゃいけない(でも、当日にもちょっと書いた)ことだと思うのですが、、、。
 
北杜夫さんが亡くなられた日、新宿から中央線で立川に戻る途中、吉祥寺の手前で隣に座っている人が読んでいた(夕刊フジだか日刊ゲンダイだかの)新聞記事が目に留まりました。
「作家の北杜夫氏が亡くなった、通夜はお断りします」
咄嗟に吉祥寺で下車し、井之頭線に乗り換えて(何年かぶりで)東松原に向かいました。親しい人たち・身近な人達や、交流のあった作家や有名人の方々も、「約束事」を守って通夜を控えていたのです。なのに、敢えて押しかけた。決して、容認されるべき行為でないことは、分かっています。でも、どうしても、最後にお会いしておきたかった。
 
約束破りの訪問にも関わらず、奥さんは招きいれて下さいました。応接間の、冷凍処置を施された遺骸の前で、最終電車ぎりぎりまで、話をしました(「昆虫の話が出来て喜んでると思う」、と言ってくださった)。
 
棺以外には何もない簡素な応接間の壁際の、ガランとした大きな本棚の真ん中には、手塚治虫の「火の鳥」の全集だけが収められていました。
「地震のあと、本棚の倒壊を未然に防ぐために蔵書は全て処分したのだけれど、この本だけは身近に置いておきたいと、最後までここに残していた」とのことです。
 
あと、棺の傍らに、先に亡くなった辻邦夫さんの奥さんからの花束が置かれていました。
 
思えば、北杜夫さん本人とは、いつも挨拶程度しか言葉を交わさなかったのですが、奥さんには、(ときどきお金を借りに行ったりしていたので)しょっちゅう怒られていた。頑張ることだけが、恩返しだと思っています。
 
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話が飛びまくりです。以下も全然違う話題です(北杜夫さんのことに触れたのは、この流れからですが)。
 
人生で、何年かごとに、斎藤緑雨に嵌ります。今回は、かなりどっぷりと嵌ってしまっている。先日、その流れで坪内逍遥の「小説神髄」と「当世書生気質」*に関する明治文学関係の文献をネット・サーフしていた時に、ある評論家の読書感想コラム(立宮翔太さんという方の「文学どうでしょう」)で、北杜夫の「船乗りクプクプの冒険」が紹介されているのを見つけました。
 
*「坪内逍遥」「小説神髄」「当世書生気質」については、僕の中では否定や肯定を含む様々な思いがあって、とてもここでは書ききれないので、触れません。
 
「船乗りクプクプの冒険」。凄く推奨されていて、ちょっと嬉しくなりました。
 
僕のfavorite小説は、
北杜夫「船乗りクプクプの冒険」
澁澤龍彦「高丘親王航海記」
前者には中学生の頃、後者には40歳を過ぎてから出会ったのですが、内容(エキス)はそっくりですね。
 
そういえば“Sloop John B.”(ビーチ・ボーイズ以前にも多くのミュージシャンによって歌われている)の歌詞にも、両者との共通要素が感じ取れます。
“I Wanna Go Home”、、、、僕は、このフレーズに弱い。
(あともうひとつ挙げれば“Let Me Go”)
「連れてってソング」と「帰りたいソング」。
(連れてってくれる人もいないし、帰るべきところもない)僕には縁のない言葉なのですが、なぜか、たまらなく惹きつけられるのです。
 
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支離滅裂になってしまいました。
 
駅のプラットホームも、メディアのプラットホームも、ひと括りすればインフラの場の一つなわけで、どちらにしても“それ自体”には意味はなく、そこから「電車に乗る」「情報を発信する」ことで、初めて意義が齎されます。
 
プラットホームで独り言を呟くのではなく、なんとか「電車」に乗る工夫をせねば、と考えている今日この頃です。

遺書 95

「遺書」としたのは86までで、その後の数編は別タイトルで掲載しました。その数編を「遺書」の一つとしてカウントすると、今回が第95回かな? 
 
一日一回とすれば、1月15日にはちょうど100回に達する予定です。翌1月16日が「コロナウイルス人-人感染認定発表日」から一年目。それに合わせて「101回目」ではなく別のもっとインパクトの強いタイトルに差し替える予定でいたのです(でも待ちきれずに数編前から既に変えている)。 
 
「百物語」なら、そこでお化けが出るわけです。手塚治虫も森鴎外も、独自の「百物語」を著しています。全然お化けなど出てきません。もっと「本質的」な部分を表現しています。
 
この2人、他に余り例を見ない共通点があります。年齢2歳胡麻化していること。年齢の誤魔化し自体は結構あります。ただし「若い方」へのサバ読み。アメリカン・ポップスの世界では、胡麻化してない歌手を見つけるのが難しいほど、みなそろって胡麻化している。エルヴィス基準(1935年生まれ)、リッキー基準(1940年生まれ)の話は、ずっと以前のコラムに書いたので、興味ある方は探して読んでください。概ね2歳(Johnny Tillotsonもその口)、5~6歳も結構あって、何人かの猛者は10歳以上サバを読んでいます。
 
鴎外と手塚治虫は、逆に年上のほうに2歳サバを読んだ。余りの早熟天才ゆえ、そうせざるを得なかったのでしょう。
 
来たる1月16日の“101回目の遺書”は、「僕の百物語」というわけです。むろん鴎外や手塚治虫のとは、比較の対象にもなりませんが、僕なりの「百物語」を目指します。お化けを出す代わりに、正面から、世間と戦っていきます。 
 
と気負ったところで、誰かに読んで貰わないことには、どうしようもない。客観的に考えれば「遺書」ではインパクトが弱すぎます。とにかく、不特定多数の人々の目に留まるキャッチ―なコピーでなくてはならない。101回目まで待ちきれずに、既に幾つかを試して見たのですが、余り効果はないようです。
 
なんか大きな事件でも起こしちゃえば注目されるのかも知れませんね(それでもマスコミによるバイアスの匙加減闇なんでしょうが)。ブログに物騒な内容を記述するとか(ユーチュバーなんて綱渡りでそんなことを続けているのでしょう)。
 
一体、どのような「表明」をすれば大向うに注目されるのか、一度は試して見たい気持ちもあるのですが、、、もちろん、騒ぎになれば困るので止めときます(笑)。
 
案外、相当に物騒(危険)なこと書いても、無視されてしまうんじゃないかという気もしますね(炎上狙っても炎上さえしないみたいな)。
 
ま、永遠の疑問、として残しておきましょう。
 
結局、どんな扇情的な言葉で煽っても、最初からスルーされる場(空気の居場所)にあれば、相手には届かない。どうやって、不特定多数の人々の目に留まるプラットホームを見つけ出すか。それが問題です。
(あや子さんや三世も知恵を絞って考えてください)
 
ちなみに、例えば「現代ビジネス」の記事ならば、僕の記事でも100万人単位の人がチェックしてくれます。けれど、「ブログ」に全く同じ記事を書いたところで、見ている人は100人もいないでしょう。中身読んでる人は、下手すりゃゼロかも知れません。
 
まあ実際は「現代ビジネス」の記事であっても、ちゃんと読んでる人は数千人とか数万人の単位でしょうから、受け取るコメント数でいえば、100前後から多くて1000ですね。でも、自分のブログだと、ゼロなわけで(もう何十年もの間ほぼゼロです)、多い少ない以前の問題なわけです。
 
そりゃ、メジャーメディアからの発信と個人の発信では雲泥の差があることは当然でしょうが、個人のブログにだって、結構コメントが来ているのもあります。まあ、僻みになってしまいますが(笑)、概ね内容の詰まらなさと、大衆受けとは比例しているようですね。
 
そのコメントについて、ここではメジャーなメディアの場合について考えてみましょう。別に僕の記事に関してということではなく、一般的に見て、ということで。
 
賛同にしろ反対にしろ、圧倒的に多いのは、「同じ意見」なわけです。100人からの反応があれば、1人ぐらい「異論」が混じっていても良さそうなのですが、大抵の場合、全てのコメントが「正論」で埋め尽くされます。
 
ごくごく稀に「異論」が混じっていれば、「正義に歯向かう悪」と見做され総攻撃を受けます。
 
理想は、異なる意見が半々、だと思いますが、そういった例は、滅多にないですね。
 
せめて「正論」が8とか9で、「異論」が1とか2、、、、その辺りが、一番健全、というか、安心するのですけれど、それもなかなかない。「共感を得る」か「反発を買う」か、どっちかしかないわけです。
 
結局のところ、共感を得るのは100人に一人ぐらいでしょうから、まずは100の人に伝達することから始めなくてはならない。
 
それには、100人中99人が反発することを書けば良いわけで、、、でも、よほどのインパクトがなくては、引っかかっては来ないでしょうね。
 
「私は明日何時何分000(場所とか有名人とか)をXXします」と書けば、(望み通り)網にかかるのでしょうか?
「私は明日何時何分000(場所とか方法とか)でZZします」と書けば、ちょっと待った、と(救いの手で)さし止められるのでしょうか?
実際に試してはみても(僕は試しません!笑)、結局はスルーされてしまうのではないかという気がします。
 
それはともかく、有効な「釣り」の方法を考える(水のないところで糸を垂れている可能性があるので「釣り」以前の問題という懸念はありますが)。幾つか例に挙げときます。
 
●韓国素晴らしい!日本はクズ。
●中国共産党万歳!!
●秋篠宮(「眞子さん圭くん」でもいい)は立派な人、世間の批判にめげず頑張ってください。
●上を(英国元メーガン妃)に置き換えてもよい。
●上を「二階さん」に置き換えても良い。
 
●みんなでマスクを外しましょう。←昨日のブログはこれにしました。
 
上記各例、僕が(必ずしも)そう思ってるわけじゃないですよ。
 
●コロナから身を守る方法(「秘訣」でもよい)を教えます
↑案外これかな?

ワクチン

WHOのテドロスさんが、「高所得国家がワクチンを独占しないように」
という声明を出しましたね。
 
それに対してのヤフコメたちの意見。
「俺たちが金出して作ったんだから、俺たちが先に使うのは当然だろ?」
民主主義国家市民の本音でしょうね。
どうぞ真っ先に思う存分使ってくださいな。(長い目で見れば)たぶん役に立ちませんから。

みんなでマスクを外しましょう!

以前から毎年、ウイルス性肺炎の脅威に悩まされ続けている我が身としては、突如湧き出したマスク(必須)集団社会(もともと日本人のマスク好きには呆れていたのだけれども)は恐怖です。
 
マスクしてない人みると、なんだかホッとしますね。
 
飲食店(スタバを含む)内は別です。半分ほどの人がしてません。だから別にホッとはしません(むしろ苛立つ)。
 
どうせなら、飲食もマスクしたままして欲しいですね。アレするときもマスクしたまま(というか、アレ自体しちゃいかんでしょう)。

問:コロナはいつ終結するのでしょうか? 答:永久に終結しません。

とにかくブログ読んでくれる人がいないと書く意味がありません。「釣りタイトル」をいろいろ考えて、これにしました。
 
相変わらず大衆は、壊れた蓄音機(例えが古い!笑)のように、全員がおんなじ「正義」の意見。
 
ネットニュース(なかんづく記事に対するヤフコメ)など精神に悪いので見ちゃいけないのだけれど、怖いもの見たさ(笑)でついつい覗いちゃいます。
 
「皆おんなじ方向性」「事なかれ主義」「取得権の保持」「責任逃れ」「異質の排除」「合法的一律洗脳」そして何百回でも繰り返し言うけれど「無意識強要同調空気」。
 
頭のいいアホたち(人類、ことに日本人の大半)には、自分たちがどれだけアホなのか、永遠にわからんのでしょうね。
 
あるコラムへのコメント、もちろん皆一斉に同じ意見(正義の意見)の大合唱。
 
↓これなども、もちろん、「正義」(のヤフコメ民)が「悪」を揶揄してるわけですが。程度が低すぎます。
 
日本医師会中川会長の連日の記者会見を要約すれば…
①『我々はコロナに関しては全くの無能力者です』
②『厄介ごとを我々に押し付けないでください』
③『根拠はありませんが感染拡大は飲食店と国民のせいです』
 
でも、笑ってしまった。これ(会長の言ってること)、当たってると思います。
 
そもそも、あらゆる「表現」は、微妙な伝達様式の差(語彙の選択)で様々な解釈が為されるものと思います(例えば、別の言語に直訳すれば上記①~③からもネガティブさが消えるかも知れない)。ということで、「別の日本語」に訳してみました。
 
⓵『皆さんの言う「(いわゆる)コロナ」というものが何であるのか、我々は実態を知らない』
⓶『医学だけで解決できる問題ではない』
⓷『マスコミや大衆が導く「空気」のバイアスによって、いわゆる「感染拡大」が成されている』
 
そういうことだと思いますよ。

コロナ遺書

マスクとワクチンが人類を滅ぼす。
 
繰り返し言いますね。
 
これ(現在の世界の状況)は単に「コロナ」云々の問題ではないのです。もっと大きな、「人類の在り方」の根源に直結する問題です。
 
風邪は、非常に恐ろしい病気です。それに伴うウイルスも非常に恐ろしい。「恐ろしい」ということで言えば、全ての現象が恐ろしいのです。僕の存在だって、あなたの存在だって、ある意味「恐ろしい」。
 
病気も、ウイルスも、敵であると同時に仲間でもあります。人類の力を過信して(あるいは過小評価して)、それを叩き潰す・排除すること(あるいはそこから逃げること)だけを考えていても、なんの解決策にもなりません。
 
そろそろ、自己保身、リスク管理、異質の排除をひたすら行い続ける社会から、脱却しませんか?

遺書86

なかなか「遺書」が終わらないので、100回目が来たら、別の表題に変えようと思います。
例えば(いつも同じこと言ってますが、笑)、
 
「正義が悪を滅ぼす」「マスクとワクチンが人類を滅ぼす」
 
表題にはちょっと長いかな?
 
・・・・・・・・・・
 
もっとも、のんきに「遺書」なんかで時間つぶしているわけにはいきません。「中国の野生植物」全100巻(原版写真10万枚超&テキスト1万頁超収納)、半端な覚悟では取り組めない。いちいち英訳してるので、、、一日僅かしか進まない。自らの語学力の低さを恨みます。
 
あと、本職(?)の「中国蝶類大(?)図鑑」の作成(毎年少しずつ進めてはパソコン関係のアクシデントでもって一からやり直し、の繰り返し)も、並行して進めようかと。こちらも、全100巻1万頁ぐらいになりそうで。
 
「アジサイ」も「ヒグラシ」も「野生のレタス」も、、、、、。一体あと何年かかることやら。時間が(お金も)足り無さ過ぎます。
 
んなこと言いながら、ここ数日、夜、部屋に帰ってからは、斎藤緑雨とか広津柳浪とかを読みふけっています。昨夜は久しぶりに柳浪の「今戸心中」を読み返してみました。
 
んで、相変わらず、飽きもせず、ジョニー・ティロットソンを聞いて、最近は、恥ずかしながら、ドリス・デイ(古い!)とかリンダ・ロンシュタッド(僕より2歳上だけれど僕にとっては新しい世代の歌手)とかに嵌っていて(好みのタイプなので〃▽〃)、、、。今の人からすればどっちも古いですかね。

 

そして、いつものとおり、睡眠剤飲んで、ベルト・ケンプフェルトを聞きながら寝ます。