社会の窓から

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日記:2019.10.24/病状について、および病歴を振り返る

状況は、昨日報告した通りです。

多分、今に始まったことではありません。

もちろん、2013年9月の「ドングリ事故」(および同年12月に中国の病院で行ったその手術)が基になっていることは確かなのですが、(それ以前からの症状も考えて見れば)それだけで全てが説明できることでもないような気がします。

早い話、もう一つの大きな病状「痛風」の発症は、「ドングリ事故」の3か月前(2013年6月)です(今回の「ぎっくり腰」発症はその5年ほど前まで遡ります)。

痛風発症時に際しての記事は 「青山潤三の世界・あや子版」に載せていますので、そっちも読んで見てください(「痛みについて」)。読み返していないので、その記事と重なることもあると思いますが、ここでも「ドングリ事故」以前のことを中心に書いていきます。

気管支炎なのか喘息なのか、、、病名を正確に判断出来ない症状(極度の空咳のため常に肋骨が何本も折れていた)で、1990年頃から2000代始めまで10数年間苦しみ続けてきました。数10か所の病院(国立がんセンターや東洋大学病院付属の気管支炎専門医院を含む)で診察を繰り返したのですが、一向に良くなることはありませんでした。毎年春に症状が始まり、猛烈な苦しみがずっと続いたあと、 秋口になって突然収まるのです。

最後の方の2000年代初めに、象徴的な出来事がありました。8月、四国の東赤石山に登った時のことです。早朝に瀬戸内側から登り始め、非常にハードな山行を経て、夜遅く、別子鉱山渓谷側の宿に辿り着いたのです。夜中に 「心臓発作もどき」(後述)が起こりました。その夜から翌日にかけて台風が通過、そこで、春から続いていた症状が、ピタリと収まったのです(非科学的な意見であることを承知の上で言うと、今回もそうですが、台風などの気象と関連して、病状が移り変わるような気がしてなりません)。そして、この時が、「気管支炎もどき」の春から秋まで続く定期行事の最後となったのです。

しかしその後も、(季節と関係付けなければ)風邪を引いて喉や鼻水や咳などに症状が現れると、最後には胸に来て、ひと月以上「気管支炎もどき」の劇症で苦しむ、という状況には度々陥りました。

2008年2月、ラオスからの帰路に高熱と喘息で苦しんだときもそうですし、2011年の暮、深圳で「もうダメ」と思うほどのダメージを受けたときもそうです(モニカと出会った時ですが、考えて見れば、その後ずっと体調面で心配をかけ続けていて、申し訳ない思いでいます)。

比較的最近の、2015年~16年(「痛風発症」「ドングリ事故」以降)には、自覚症状はそれほどないにも関わらず、骨のあちこちが折れていると病院で診断され、ギブス生活を余儀なくされたこともあります。

その逆のケース。痛風に初めて襲われたのは、2013年5月ベトナム・ハノイでのことです。その4日ほど前、雲南省の山岳地帯を丸1日歩き通した際、左足の中指を骨折?してしまった。大したことは無いだろうと我慢していたのだけれど、ベトナムに移ってから、突然親指に激痛が走り出しました。余りの痛みに、ハノイの外国人専用医院に行って診察を受けました。現地の医師の方から「骨折部分からの炎症で、脚全体がダメージを受ける可能性がある、詳しい検査をし、場合によっては手術をしなくてはならないので、手術費を用意して明日再診を受けるように」と言い渡されました。

翌日の診察医は、欧米人の老医師でした。症状を説明し、患部の状態を見せるなり、老医師は即座に言いました。「これは典型的な痛風」。想いもよらぬ病名です。僕は反論しました。「そんなことあるわけないです、事実中指が折れているのだし、骨折による痛みだと思います」。老医師は納得出来ないでいる僕に言いました。「偶然です、場所が違う」「100%痛風です、断言します」「もし納得して頂けないなら検査をして示します、検査費は無料で良いです」。

結局、まさかの「痛風」でした。それから「痛風」の激痛との闘いが(相次いでスタートした「ドングリ事故」による戦いと併行して)始まったのです(でも、今考えても不思議なのは、骨折による痛みの方は偶然だったのでしょうか?)。 

話を過去に遡ります。

若い頃から、体調面での2つの辛い症状が、長い間続いていました。その後「気管支炎もどき」で苦しめられるようになった2000年代の初め頃までの30年間ほどです。

一つは「不眠症」。一度眠れなくなると、一週間から二週間、ぶっ続けで眠れなくなってしまう。

だいたい、こんなパターンです。何日も眠れていないわけだから、ほっときゃそのうち眠ってしまう、と考えるわけです。昼間は、歩いていてもウトウトしている。それだけ眠たいのだから、布団に倒れ込んだら、すぐ眠ってしまうはず、なのです。でも、そうはいかない。あれだけ眠たかったのが、いざ眠ろうとすると眠れなくなってしまう。

もう少し正確に言うと、布団に倒れ込んだあと、一瞬寝てしまうのですね。ところが、一時間としないうちに目が覚めてしまい、それから眠れない。寝よう寝ようと思って眠れないのも嫌なので、仕方なく起きています。それが何日も繰り返され、どこかのタイミングで、丸2日-3日間熟睡する。

1993年7月初め頃(まだ中国と日本の両方で活動していたとき)、植物図鑑の作成のため、北アルプスの山々を撮影した後、北海道に向かい、道内では、船や列車やタクシーで移動し、ほぼ毎日のように別の北海道の山々(利尻-知床-夕張-大雪)を駆け足で巡って撮影を行いました。その後、飛行機で東北に転進、岩手の早池峰に駆け登って、また飛行機で東京に。中央線の夜の列車で甲府、日帰りで北岳を駆け登って(この行程がどれほど凄い事か、山を知ってる人ならば分かるはず、、、無謀と言えば無謀なので、余り自慢できることではないですが)。その間の10日余は、ほとんど寝ずに過ごしたのです。

世田谷のアパートに戻り、さすがに寝れるだろう、と思っていたら、やっぱり眠れない。翌日、近所の(それまで一度もかかったことのない)医者を訪れました。「眠れないので困っている」と訴えたとたん、医師は(僕のやせぽっちで弱々しい外見からの判断でしょう)こう言いました。

医師「貴方はアパートからどうやってきましたか?」。僕「歩いてきました」。医師「走ってきなさい、運動をしないから眠れないのです」。何も言わずに病院を出ました。もちろん2度とその病院には行きません。偉い人、頭のいい人ほど、外観で(自分の想い込み、あるいは「勉強の成果」)で物事を判断してしまうのですね。

あともう一つ、不眠症以前(もしかすると10代の頃)から、40年間ほど延々と続いていた「持病」があります。

熟睡中、未明に突然起こります。体調の悪い時ではなく、むしろ体調の非常に良い時に限って起こる傾向がある。突然苦しくなって飛び起きるのです。心臓が嘘みたいに速く大きく鼓動し、まず無意識的に必死で窓を開けます。自分で心臓マッサージをするなりして、横になります。一旦収まれば、2度続けては起こりません。その後も暫くは起こらずに、次に起こるのは、「忘れた頃」です(「また起こるのでは?」とビクビクしているうちは起こらない)。

救急車で運ばれたことも何度かあります。しかし病院で心電図などをチェックするときには、もう症状は現れない。その結果、「気のせい」「気にし過ぎ」として処置されてしまいます。下手に反論を行うと、「精神の異常」と見做されかねないので、引き下がるしかありません(今は、その症状が「精神的な幻覚」などではなく、ちゃんと存在することが判り、病名も付いているはずです)。

一度、1980年代だったと思いますが、終日心電図を撮り続ける装置を一か月ほど着けたことがあります。でも、その時は何もキャッチ出来なかった。

これも不思議と言えるのですが、2000年代に入って、ぴたりと治まってしまった(その代わり「気管支炎もどき」や「痛風」や「ドングリ後遺症」に悩まされることに成りますが)。

あと、今思ったのですが、それに代わる症状に、ここ10数年(今も一年に何度か)遭遇し続けています。夜中に熟睡中、突然猛烈な悪寒に襲われるのです。体中が震え、意識が遠のき、凍え死にしそうなほど寒くなります。やはり前触れなく突然起こります(ありったけの衣類を着纏ってやり過ごします)。比較的寒い時期に起こることが多いのですが、夏に起こることもしばしばあります。

体調の悪化状況は、「ドングリ事故」以降の最近6年間、さらに悲惨になりました。2014年の夏の、左足切断の危機(チベット高原)。同年暮れの、両眼失明の危機(ベトナム)。2016年暮れ、深圳滞在時の「気管支炎もどき」の再発では、何度も喀血しました。いずれも「ドングリ事故」の後遺症であることは間違いないでしょう。

ただ、全ての原因(出発点)を「ドングリ事故」に探るのも、ちょっと違うかな、という気もしています(少なくても中継点であることは、ほぼ100%間違いないでしょうが)。「痛風」との組み合わせも気になります。それをも含む「全部」がリンクしているのではないかと。

非科学的な話になりますが、、、、、。「ドングリ事故」が起こる、あるいは痛風になる(痛風が判明する)ずっと前から、痛い部分や悪い症状が、短期的に見ても、長期的に見ても、移り変わっているように思えるのです。「痛風の素」みたいなのがあって、そいつが、「今度どっか悪くなったら、その部分を狙い打ちして虐めてやろう」と、意思をもって攻めてくるような気がしています。そう考えれば、最初に起こった「痛風」も、その数日前の中指の骨折は偶然ではなく、弱った部分を狙い撃ちするように「足の親指に生じる典型的な痛風」として現れたのではないかと。

僕は、なぜこんなにも苦しんでばかりいなければならないのでしょうか?

一般の人々に比べて我慢が無さすぎる(ちょっとした外圧でも強い痛みや苦しさを感じてしまう)事に因るのか、逆に一般の人達より我慢強過ぎる(普通なら平気にしていられない外圧もスルーしてしまう)事に因るのか、、、、。血液検査などのデータを採っても、大抵は大きな異常値が示されないことを考えれば、前者なのかも知れません。

でも、これほど苦しいのに、平気で山に登ったりしています。去年や今年も、体調云々以前に、経済的な余裕が無くて本来の活動がほとんど出来なかったのですが、それでも標高1000m前後の山々に、何度も登っています(それもまともな道がないようなところを)。意識朦朧、頭は割れるように痛く、胸は苦しく、脚はまともに動かず、ほとんど目も見えない状況で、ふらつきながら、手探りで道を探しつつ、昆虫や植物の探索を行っているのです。

どう考えても、普通じゃないです(笑)。よくそんな事が出来るものだと(決して自慢できる事ではありません)。

昔、別の時代(20~40年ほど前)に、別の人(医者とか整体師とか)に、3度ほど同じような指摘を受けたことがあります。「数値上は、どこも悪いところは無い、しかし体全体はボロボロ、30歳(40歳、50歳)の体ではなく、老人の体である」と。鈍感すぎる(我慢強い)のか、敏感すぎる(弱虫)のか、という事ではなく、どちらでもない(理屈には通らないですが)、すなわち「どちらも」なのかも知れません。

6年前の「ドングリ事故」、それに続く「左足切断の危機」、、、余りの辛さに、もうダメと観念して「遺稿集」を創りました。でも、なぜかまだ健在です(笑)。

「スループ・ジョン・B」状態を続けながら、「アイ・ワナ・ゴー・ホーム」と、このまま迷走しつつ、どこかにフェイドアウトして行くのでしょう。でも、もうほんの少しで良いので、健康と時間と(ハード・ディスク購入などに必要な)資金が欲しい。なんとかして、資料や写真を後に残したい、と願っているのです。


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アメリカン・ポップスの神髄ともいえる“帰りたいSONG”4曲を紹介しておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=SqohLB-XVXs
「デトロイト・シティ (アイ・ワナ・ゴー・ホーム)」 ビリー・グラマー
https://www.youtube.com/watch?v=6G4bxA2Gfnc
「デトロイト・シティ (アイ・ワナ・ゴー・ホーム)」 ボビー・ベアー
https://www.youtube.com/watch?v=rSuTm1N8dmY
「デトロイト・シティ (アイ・ワナ・ゴー・ホーム)」 トム・ジョーンズ
https://www.youtube.com/watch?v=NM6_O-jqYLE
「デトロイト・シティ (アイ・ワナ・ゴー・ホーム)」 ディーン・マーチン

「Detroit City」 は、Mell Tillisと Danny Dillの作品。はじめ「I Wanna Go Home」の曲名で、62年にC&W歌手のBilly Grammerによってリリースされ(C&Wチャート18位)、翌年、Bobby Bare盤で、ポップス/カントリーのクロス・オーバー大ヒットとなりました(Pop16位/C&W 6位)。67年にTom Jones盤(Pop 27位)が、70年にDean Martin盤(Adult 36位)が、カバー・ヒットしています。


https://www.youtube.com/watch?v=3AThA3ezH5k
「グリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム」 ジョニー・キャッシュ
https://www.youtube.com/watch?v=jLnhghhwSm4
「グリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム」 ポーター・ワゴナー
https://www.youtube.com/watch?v=u81CTfbc99c
「グリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム」 トム・ジョーンズ 
https://www.youtube.com/watch?v=0nBPUljd2IA
「グリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム」 ボビー・ベアー
https://www.youtube.com/watch?v=RQ_nudgEAQc
「グリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム」 マール・ハガード
https://www.youtube.com/watch?v=Vph_z0ifSrs 
「グリーン・グリーン・グラス・オブ・ホーム」 チャーリー・プライド

「Green Green Grass Of Home」は、Clude Putman Jr.の作品。Porter Wagoner盤でC&Wチャート4位(1965年)、Tom Jones盤でPopチャート11位/Adalutチャート12位(66年)。日本の学校では、この歌を単に「故郷を偲ぶ歌」として紹介しているそうです。Johnny Cash盤は、本物の刑務所内でのライブ。僕は黒人C&W歌手のCharley Pride盤が好きです。Charley Prideについては、この後の「エルヴィスとビートルズのはざまで」のシリーズで詳しく紹介する予定です。

https://www.youtube.com/watch?v=VRNzdRFnn0c
「コットン・フィールズ」 ジョニー・キャッシュ
https://www.youtube.com/watch?v=I9Nisq02IMU
「コットン・フィールズ」 チャーリー・ブライド
https://www.youtube.com/watch?v=eczOvaKWRZM
「コットン・フィールズ」 ジ・エンジェルス
https://www.youtube.com/watch?v=V44pbEAk0t0
「コットン・フィールズ」 ザ・ビーチ・ボーイズ
https://www.youtube.com/watch?v=d9CQPQOhWy4
「コットン・フィールズ」 ザ・ビーチ・ボーイズ
https://www.youtube.com/watch?v=9JjxpGpKNR4
「コットン・フィールズ」 ザ・クリーデンス・クリアウオーター・リヴァイバル

「(Old)Cotton Fields」は、アメリカのトラデショナル・ソング「Cotton Song」が元歌で、多くの歌手によって歌われています。Johnny Cash盤は62年のアルバム、Charley Pride盤は69年のアルバムに収録。お宝的存在は、1963年「My Boyfriend’s Back」のBillboard popナンバー1ヒットで知られるThe Angels盤。同じ63年に以前在籍していたレーベルから再発されたもの(63年pop119位)。70年には、The Beach Boys盤が、Billboard pop113位、イギリスで5位、スエーデンやノルウエイで1位。同70年にThe Credence Clear Water Revival盤が、メキシコで1位。

https://www.youtube.com/watch?v=XB09cky5Cek
「スループ・ジョン・B」 ジョニー・キャッシュ
https://www.youtube.com/watch?v=X4AT_2P03YI
「スループ・ジョン・B」 ジミー・ロジャース 
https://www.youtube.com/watch?v=I9HnTxSsKvs
「スループ・ジョン・B」 ビーチ・ボーイズ(1965)
https://www.youtube.com/watch?v=H6Uc_Gi7gdM
「スループ・ジョン・B」 ビーチ・ボーイズ(1980)
https://www.youtube.com/watch?v=eDZgl7H-coQ
「スループ・ジョン・B」 ビーチ・ボーイズ(2016)

「Sloop John B」は、カリブ海バハマ島のトラディショナル・ソング。Beach Boys(1965年pop 3位)で有名ですが、他にも別のタイトルで、The Kingston Trio (1959年)ほか、数多くの歌手によって歌われています。ここで紹介したJohnny Cash盤(58年)のタイトルは「I Want To Go Home」、Jimmie Rodgers盤(60年pop 64位)のタイトルは、「The Wreck Of The John B」。1980年のThe Beach Boysは、ほとんど最初で最後と言える6人全員が揃っての、伝説のライブです。