社会の窓から

社会の窓を開け放ち、世界の人々と交わろう。

2020.4.18 山で道に迷った時、振り返って戻ってみよう

極論すれば(結果論だけで言えば)、筆者は大半の世論とは異なり「新型コロナウイルス無視」論者です。
 
でも、これだけは、はっきり言っておきます。必要のない時には人混みの中には行かない。並ぶときは間隔を空ける。人と話す時は大声で喋らない。常に手洗いと嗽を心がける。病院には出来るだけ世話にならない、、、等々。筆者個人は、みんなで決めたルールを守ります。
 
マスクは確かに防御の意味があるけれど、マスクをしていることで、安心してしまい、「2m間隔開ける」「多数で集まらない」「密室に籠らない」といった、(今回に限らず)普段から当然守られるべき基本的な状況がおろそかにされてしまっている(とくに若者たち)。「マスク絶対主義」の弊害だと思います。ならば、普段はマスクを外して、「基本」を確実に守るようにアピールしていこう、と筆者は考えています(むろん常にマスクを携帯していて、近くに人がいる場所や、スーパーのレジ、人と話す時、車内などでは、その都度マスクをします)。
 
みんなで決めたルールを守る。そのうえで、そこに留まることなく、そこから先のことを考えていきたいのです。
 
「新型コロナウイルス」の脅威は否定しません。全力で対峙せねばなりません。間違えてもらうと困るのですが、「退治」ではなく「対峙」です。
 
「新型コロナウイルス」の脅威は、これまでにも存在した様々な「脅威」とは異なる、特有の性質を持った脅威なのかも知れません。だから「対峙」の仕方も難しい。
 
しかし、「特有」ということでは、例えば「インフルエンザ」を始めとする様々な「病気」にしても、「交通事故」にしても、あるいは「自殺」の多発にしても、それぞれ複雑な特有の背景を伴っています。
 
それらに対する真剣な対峙を置き去りにして、「新型ウイルス」のみに眼を向け、対峙ではなく、実質的には「退治」をもくろんでいる。そのような「人類の傲慢な姿勢」がつづく限り、問題は終結しないのではないでしょうか?
 
先日、首相夫人にまつわる某医師の談話(ホーム・ページ)が紹介されていました。大多数の人々は眉を顰めるだろう意見です。
 
>不安と恐怖が、ウィルスに対する愛と感謝に変わった途端、ウィルスは、目の前で、ブラックホールから、突然、喜んで、消え去ります。
 
表現のしかたには、かなり問題がありそうですが、筆者も、その通りだと思います。本質を見極めることで、問題となる対象の「性格」自体が、まったく別次元に置かれる。その前提で「正しく怖がることに対しての模索」を行い続けているWHOの姿勢は、正しいと思います。
 
これも表現が不謹慎かも知れませんが、「新型コロナウイルス」(いまだに固有名詞が付されない!!)のおかげで、いろんな「不都合な事実」が浮き彫りになってきました。
 
例えば、(デリケートな問題ではありますが)民主主義が果たして「正義」なのか?ということに対する多くの人々への問題提起(ちなみに、昨年勃発した「香港デモ」の本質も、「資本主義社会」の許に展開する、「自由」「文明」「科学」の一方方向からの正当化、と考えれば、今回の「新型コロナウイルス問題」の「序章」として捉えることが出来るでしょう)
 
また、結果論だとはしても、中国をはじめとする世界各地に於いて懸念され続けてきた、大気汚染や衛生概念の問題が、図らずも好転しつつあります。
 
筆者個人的には、、、。日本に帰ってきたとき、一番嫌な思いになるのが、筆者の住む東京郊外のJR路線の「ドアの手動開閉」。筆者は、皆がその「ルール」を頑なに守ろうとすることによる、弊害のほうが多い(自分さえルールを守っていればよい、そこから先は思考停止、そのことで他人がどうなろうが知ったことじゃない、という行為の象徴)と考えてきました。その無駄な作業が停止され、普通の開閉方式に戻った。
 
もうひとつ鉄道がらみ。昔は車窓を自由に開けることが出来ていたのですが、今はそれがご法度、車内は密閉され、(文明繁栄の象徴たる)冷暖房が完備されていたわけです。4月下旬から5月にかけての爽やかな初夏の季節にも、外からの風は遮断されてきました。それが (不謹慎かも知れませんが)コロナのおかげで、爽やかな風を得る機会が復活したのです。 
 
人類が、今の状態のまま、文明・科学を過信しつづけ、便利さのみを追及していくなら、早晩、地球は破滅してしまうでしょう。コロナウイルスは、その警告なのかも知れません。
 
ウイルスを含む地球の自然と向き合う。人類がそのことに気付いて方向転換を成したとき、ウイルスの問題も、ブラックホールに吸い込まれるように、消え去ってしまう、、、。ウイルスに対する「愛と感謝」、というのは、そういうことなのだと思います。