社会の窓から

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イランとアメリカ コンデンスミルク三世&一世

この後すぐにアップする予定の「アテネから香港へ(日記2019.8.29)/中東の上空で“香港デモの正義の根源”についての想いに耽る」は、先日「ミルク一世」が、ギリシャから(シンガポール経由)香港に戻る途中に、イラン上空辺りで書いた記事です。

そこに、たまたま、「ミルク三世」から、東京滞在中の「一世」に、イランに関するメールが届きました。いいタイミングなので、先にそれを要約し、「一世」の見解も付け加えて紹介しておきます。

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ギリシャの隣がトルコ、そのまた隣の国がイラン(ペルシャ)。ギリシャ、トルコ、ペルシャ、、、、日本人にとっても、なんとなく懐かしい響きですね。

でも、これらの国々の実態は、多くの日本人にとっては、ベールに包まれているように思われます。

ギリシャは、もちろんヨーロッパ(ユーロ圏)、イランは(あとで述べるように地史・地勢や生物地理的な側面は別として)一応「アジア(西アジア)」に区分されています(トルコはどっちに入るのだろう?)。

多くの日本人にとっては、イランは厄介な、余り関わりたくない国なのかも知れません。何しろ(実質日本の「ご主人様」である)アメリカが、「悪の中軸」と認知している国ですから。

でも、三世が得た様々な情報によると、実際のイランは、なかなか素敵な国らしいですよ!

物価も安く、治安も良く、(多くの日本人が誤解して想像している)スリなどもほとんどいないのだとか。イスラム面での制約はあるものの、みんなのんびりと暮らしているそうです。

ただし、アメリカによって「悪者」にされていることから、(イスラムである事とは別次元の)様々な制約が課せられています。例えば、クレジットカードは作れず、日本からの送金も出来ない、等々。

アメリカは石油が欲しいがために、悪者にしておきながら一方ではコントロールしようと企んでいます(香港や中国への対し方も同じかも知れませんし、南米アマゾンの大火も、石油を得るための策略ではないかと思われます)。

ところで、イランの西隣にはアフガニスタン、そのまた西にはパキスタンといった国々があります。あるいは、いわゆる「中央アジア」とされる、ウズベキスタン、トルクメスタン、タジキスタン、、、。

これら、イランの周りの「スタン」が付く国は、元々イラン領だったのだそうです。それを政治的な企みでもって分割したのがアメリカ。更に今、アメリカはトルコの土地に新しい「スタン国」をつくろうと考えているようです。

アメリカは、なんとしてでもイランの邪魔をしたい。

日本が「ストレス大国」になったのは、アメリカのせいかも知れません。そして、今世界中、アメリカによるコントロールで(更に裏にはユダヤ?)、皆同じになろうとしてる気がします。

日本人が無条件にアメリカ好きというのは、実は、恐ろしいことなのではないかと思います。無意識の情報操作、気が付けば、いつの間にか洗脳されている。

もっとも、三世も(一世が大好きな)エルビスは嫌いじゃないし、ディズニー映画は好きですが、、、(でもディズニーは色んなとこからパクってますね、笑)。

イランが車を生産しているので想い出しましたが、ギリシャも昔は車をつくっていたそうです。ユーロ、特にドイツからの圧力により工場を閉鎖させられたらしいです。ほかの工場に対してもですが、圧力をかけ国内生産をさせず、他のユーロの国から(特にドイツから)買わせるという魂胆のようです。

強国に買収されてるギリシャの政治家もアホですが、山から降りて来たばかりの世の中を知らないような、資本主義やお金についてわからないギリシャ人を騙して、国を壊していく(概ね北方の)列強国は、えげつないと思います。

そして世界から、「ギリシャは能無し」と言わるようになった、、、、そこら辺のことは、改めて詳しく考察していく予定です。

三世は、今日もこれから仕事です。 明日明後日頑張れば、一日休みです。

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ついでに、一世による付記を以下に。

一世の嫌いな国と好きな国のリスト。単にイランの上空で、思い付きでメモしたやつです。深く考えないでください。

嫌いな国 1位:韓国(好きになろうと努力している) 2位:シンガポール(ノーコメント) 3位:イスラエル(なんとなく) 4位:イギリス(ノーコメント) 5位:日本(ノーコメント)

好きな国 1位:インドネシア(生物地理的多様性) 2位:ミャンマー(かつて好待遇を受けたので) 3位:ラオス(蝶々と可愛い女の娘が多い) 4位:ドイツ(音楽) 5位:アメリカ(1960年代前半限定)

ちょうど、イラン上空辺りで、思い付きでメモしたもの、ほんとに真面に捉えないでください。順位は随時(一秒置きぐらいに?)変わります。鉄壁のトップの韓国は、今回の初訪問の最後の最後(インフォメーションの親切な美人のお姉さん)で大分挽回したし、シンガポールは、行き帰りの乗り継ぎ時の空港スタッフがとても親切だったので、こちらも好感度をかなり上げました。5位のXX国が繰り上げで上位に来ちゃいそうです(笑)。中国も香港もギリシャもイランも(好き嫌い両方とも)入ってないので申し訳ないです。アメリカ(好き5位)は、あくまで「オールデイズ」限定です。誤解なきよう。

一世は、イランに関する知識はほとんどないです(区分けでは中東?僕たちの年代では「ペルシャ」といったほうがシックリきますね)。

ヨーロッパから見れば「西アジア」ということなんでしょうが、地勢的にも、生物地理的にも、明らかにヨーロッパの延長です。ユーラシア大陸の中央部に、ヒマラヤ山脈やチベット高原などの、地球上のすべての7000m峰が集中する「地球の屋根」があるわけですが、そこから(一度断絶されて)東西に伸びた山塊が、東は中国の秦嶺山脈、西がイランのエルブルース山脈、というわけです(それぞれ東西に、日本列島・ヨーロッパとの橋渡しを為す中間地点)。

イランというと荒漠した土地を思い浮かべますが、エルブルース山脈(ことにカピス海に面した北面)のような、豊穣な緑の地もあるのですね。

以下、イランを接点とした、一世の数少ない個人的な思い出(アメリカ絡み?)。

1989年6月、あの「天安門事件」の直後、一世は四川省の九賽溝を訪れました。むろんツアー旅行ではなく、ローカルバスを乗り継いでの旅(今想えばあの緊迫時によく行きつけたものと思う)。「超有名過密観光地」となってしまった現在では考えられない長閑な旅でした。チベット人の経営する、夜はランプだけの農家を改造した宿に、他の外国人バックパッカーたちと共に、4~5日を過ごしました。

国籍をはっきり覚えています。ドイツ(男性)、スイス(女性)、アメリカ(女性)、イラン(男性)、スロヴァキア(男性)、イギリス(女性)、そして日本人の一世です。ほとんど皆、一人旅だったのですが、イラン人男性とアメリカ人女性はアベックでした(別に深い意味はないと思う、たまたまでしょう)。

一世が一番仲が良かったのはスロヴァキア人の青年で、「チェコスロヴァキア(当時はまだそうだった)じゃなくスロヴァキア!」と強調していたのが印象に残っています。そのスロヴァキアから、(中央アジア経由で)路線バス乗り継ぎやヒッチハイクを繰り返し、ウイグルやチベットを横断して、この四川省北端の山まで辿り着いたという強者です。

最終日、全員(なぜ全員一緒に帰路に着いたのかの理由はよく覚えていない)で自然公園の入り口まで歩いて移動し、5人は南の成都方面に、一世とキャロライン*という名のイギリスの女の子は北の甘粛省境を経て広元という町に向かいました。

*なんで名前を憶えているかというと、「“キャロライン”という名は略すと“キャロル”になるの?」と聞いたら、「No!」というので、印象に残っているわけです。参考:「キャロライン・ノー/ブライアン・ウイルソン Billboard 32位(1966年)」「オオ・キャロル!/ニール・セダカ Billboard 9位(1959年)」

この時の旅が悲惨でした。(「現代ビジネス」の記事“私が目撃した天安門事件~あの日中国の若者に尋ねられたこと https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65045 ”にも少し記してあるのですが)ローカルバスのチケットを前もって購入してあったのに、当日乗せてくれなかった。運転手に理由を聞いても、一言も答えてくれない。目を背けたまま。キャロラインは怒り狂って喚いています。「ジュンゾウ、あんたももっと怒りなよ!」(中国では僕もしょっちゅう怒っていますが、横にいる人が先に怒ってると、つい任せてしまう)。我々二人を(目の焦点を逸らして)見つめる乗客たちの何故か哀し気な表情が、今も心に焼き付いています。

結局、トラックをヒッチハイクして、何とか先に進みました。

彼女は、この旅を終えた後に20歳の誕生日を迎えるとのこと。「自分はパンクで兄はもっとパンク、母親が悲しんでいるので、成都に戻ったら電話してあげなくちゃ(当時はまだ携帯電話は普及していなかった)」。

「パンク」ってのは一世はよく知らないけれど、日本でいう「ヤンキー」みたいなもんでしょうか。2日目に乗ったローカルバスの中では、最後尾の席に寝転んでビールをラッパ飲み、トイレがないのでバスを停車させて、バスの陰でウンチ(一世はその見張り役)。

田舎町で安ホテルを見つけるのとか値切るのとかは上手で、そこらへんは西洋人のバックパッカーは大したものだと思います。三日間一緒の部屋で寝てたけど、何にもしていませんよ!紳士だから(笑)。

三日目は、またトラックをヒッチ。夜遅く広元の駅に辿り着いたときは、へとへとになっていました。成都に戻ったあと、次は「海螺溝(ミニャコンガ山)に行く」というので、(その年の春に行った一世が)ホテルを訪ねてレクチャーしてあげる予定でいたのだけれど、急遽日本に帰らねばならなくなり、そのままになってしまいました。元気にしてるだろうか?今も時々気になります。

イラン人の話題からは逸れてしまいました。もうひとつ、これも僅かだけれど、イランに掠る話。

香港空港の出発ロビーの一世の「指定席」(電源コンセントが使える机)では、いつも夜通しパソコン作業をしているのですが、隣で同じように作業をしている人とは、結構仲良くなったりします(トイレに行くときなどにお互いに見張りを頼むので)。

この間は、ミンダナオ*のムスリム男性ビジネスマンと隣り合わせになりました。

一世は、ちょうどその日(7月1日)の夜、香港デモ取材中に「(我々に不利になる)暴動の現場は写すな」と学生たちに取り囲まれ、撮影済みの写真のデレイトを求められたうえ、レンズを壊されて、引きずりまわされたり、突き倒されたり、大変な目に会ったのです(アメリカ人のフリー記者に助け出されました)。

翌早朝に帰国するため、深夜空港に行って、「指定席」の隣に座っていたミンダナオの男性にその話をしたところ、彼もまた、同様のトラブルに巻き込まれた、というのです。

7月1日の午後、学生たちが最初に法議会に突入した前後のこと、ちょうど近くの公園にいた彼は、突然、黒シャツの学生たちによって、数時間拘束されてしまった、と。様々な尋問にあって、何が何だか分からないまま釈放?されたのだけれど、後でわかったのは、彼の服装が警察のそれに酷似していたからだったそうな。

とんだ大迷惑だったわけで、僕や彼のほかにも、酷い目に会った人は少なからずいると思います。

*ちなみに、ミンダナオ島は同じフィリッピンという国に所属していてもルソン島とは民族も生物相も明確に異なり、フィリッピン諸島であると同時に、セレベスや北モルッカ(ハルマヘラなど)、さらにニューギニアなどとの関連も強く有しています。

この「指定席」の隣に居合わせた人の中で、特に印象に残っているのが、4~5年に会ったイラン人男性です(結構エリートっぽい感じの人で、外交官だったのかも知れません)。

彼は、アメリカがいかに酷い国か、イランがいかに素晴らしい国かを、夜通し語り続けました。朝、お互いのフライト時間が来たときメールアドレスを交換しました。

それからしばらくして、突然、見知らぬ人からメールが来たのです。どうやら、そのイラン人からの橋渡しのようです。メールの主はリビアの女性。英文の長いメールで、一世には正確な内容がよく理解出来なかったけれど、「自分の夫がアメリカ軍に拘束されている、助けの手を伸べてくれないか?」という内容だったように思います。

カダフィが抹殺される前後のことです。

そんなこと言われても、一世には政治的なコネなど全くないし、、、、一体、どうしていいか分かりません。と言って、無視をするわけにも行きません。次のようにメールを返信しました。

>協力してあげたいけれど、僕には政治的なルートも、資金もありません。でも、僕に出来る事があれば、何かしましょう。言ってください。

それ以来、連絡はありません。

イスラム社会は、私たち日本人とは全く異なる価値観の上に構成されています。と同時に、ムスリムの人たちは、非常に身近な存在でもあるのです。例えば、香港でも、中国雲南省南部の幾つかの都市でも、ごく日常的に、彼らに接します。都市によっては、街角で見かける大半の人がムスリムだったりします。

私たちと彼らの価値観の著しい違い、それにどう対して行けば良いのでしょうか?

拒否することは簡単です。でも、地球上に一緒に暮らしている限り、それで解決することではないでしょう。

それがどのような形で為されるべきなのかは分からないけれど、何らかの形で「向き合わねばならない」ということだけは、確かであると思っています。