社会の窓から

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武漢・新型コロナウイルス肺炎について思う事 2020.1.27


今日から、帰国日の2月3日まで、アパートの室内に蟄居です。モニカからは「外出しないように」というメールでの指示が、なんども繰り返し来ます。大家さんも僕の部屋を度々覗きに来る。
 
今回の問題に関しての対応・反応は、中国の政府にしろ市民にしろ、これまでの諸々の問題発生時とは、ちょっと違うような気がしています。相当に、逼迫している。
 
僕には幾つかの「相反する」“想い”があります。そのどれが正鵠を得ているのか、今のところ判断が付きません。
 
時系列で整理しておきましょう(僕のパソコンでは以前の記事を遡ってチェックすることが出来ないので、正確な日付は後程調べ直します)。
 
中国で「新型ウイルスによる肺炎」が多発しているらしいことは、海外のソースでは、昨年暮れ頃からニュースになっていたように思います。
 
日本の一般市民を含む多くの人々に知れ渡ったのは、今年に入って1月16日だったようです。ヒト→ヒト感染の可能性を示唆する「濃密接触云々」の報道の、その見慣れぬ言葉の定義などをめぐり、冷やかしを含めた様々なコメントが他人事のように為されていました。
 
それが、感染者の人数が増えだしてから、これはヤバイんじゃないか、という雰囲気になってきた。ただし、この時点で(一様に)危機感を煽ったのは日本の報道で、中国の市井では(僕のいる深圳や広州でも)1月20日を過ぎた頃に於いても、左程の危機感は感じられないでいました。
 
今年の春節初日は1月25日ですが、休暇や移動が始まるのは、一週間前の1月18日からです。
都市から地方(この「都市と地方」というのは、「沿海部大都市と内陸都市」ということではなく、内陸の都市、それも省都以外の地方中都市をも含めた、農村部からの出稼ぎの人々が働く広い意味での都市部と、農村・漁村地帯の文字通りの田舎)へ、数億人が大移動します。
 
それが始まった18日前後の時点では、まだ「新型ウイルス肺炎」は、余り話題に登っていなかったように思います。
 
ところが、人人感染がほぼ確実になるにつれ、中韓におけるネガティブな話題が大好物の日本の大衆(やメディア)からの、大バッシングが始まりました。中国政府の事実隠蔽。日本政府の優柔不断。
 
春節期間で、最も人々がバタバタと動き回るのが、日本の元旦に当たる前日の、すなわち大晦日(徐夕)の午後です。この日のうちに、何から何までの春節の際事の準備を済ませねばなりません。自分たちの作業に集中しなくてはならず、たいていのインフラがストップしてしまい、僕など部外者が途方に暮れてしまうのが、この日です。
 
むろん、実際の経緯はもっといろいろとあるのでしょうが、政府が正式に危機を発令し、中国国内の一般市民の多くが危機感を共有し始めたのが、この大晦日(徐夕、1月24日)のことです。それまではちらほらとしか見かけなかったマスク姿が、一気に激増しました。地下鉄の入り口などでは発熱検査が行われ、人々の口からも不安の声が一斉に上り始めました。
 
偶然だとは思うのですが、春節移動のピーク終了のタイミングを見計らったかのように、緊急事態 発令が発令されたわけです。
 


パニックとパンデミック
 
最初にも記したように、僕には、全く相反する2つの想いがあります。そのどちらが正しいのか、僕には把握できないでいます。ある意味、どちらも正しい(言い換えれば、どちらも間違っている)と言えるのかも知れません。
 
それは、後手に回ることによって、みすみすパンデミック状態形成を許してしまうことへの危惧感と、必要以上の焦りを引き金に、パニックを引き起こし、本来起こらなくても済んだかも知れないパンデミック状態形成への加担を成してしまう事に対する危惧感です。
 
ウイルスの本質や広がり方の状況を、冷静に落ち着いて見極めることから始めるべきか、緊急の実行動を最優先させるべきか。
 
本当に脅威だった場合、後手に回ると取り返しのつかない事態になることも事実でしょうし、必要以上の混乱を招くことで、より大変な事態に陥ってしまう可能性があることも、また事実でしょう。“二者択一”ではなく、“同時進行”しなくてはならないのだと思います。もちろんそれは、口で言うほど簡単なことではない筈です。
 
フィリッピンのドウティルテさんの思い切った対処(464人中国人観光客の強制送還)は、ひとつの答えだと思います(大変な賭けではあるのでしょうが)。混乱を最小限に抑え(地元観光地への大打撃は与えるとしても)、かつ後手に回ることを避ける。中国との間の人の行き来が日本よりは少ない島国で、独裁権力者が仕切るフィリッピンだから可能だったわけで、中国国内はもちろん、日本の場合は現実的に不可能だと思います。仮に、そのような強硬手段を取ったとしても、(本当に脅威だった場合は)すでに手遅れでしょう。
 
中国政府は、ウイルスの存在が発覚して以降、苦渋の決断を迫られていたと思います。パンデミックに至る可能性への対応、パニックが起こる防止への対応。
 
客観的に考えれば、新型ウイルスの発生は、(従来のウイルスなどと比較して)さして脅威ではない、と捉えることが出来るのかも知れません。しかし、憂慮する問題であることには変わらない。パニックを引き起こさぬよう冷静に対処して、根治を目指す。それを隠蔽とするなら、隠蔽なのでしょうが。
 
しかし、正確な実態は現時点では不明なのではないかと思います。
 
感染者の数が、(把握しえないほどの)未曾有の数まで達しているのかも知れません。逆に、客観的に考えて、人口3000万都市圏に於ける“肺炎ウイルス”による500人という感染者数や、数10人の死亡者数が、従来のそれ(肺炎やインフルエンザ患者)に比べて、突出して多いものなのかどうか?
 
病院に押し寄せている人々は、本当に重篤患者ばかりなのでしょうか? このような報道下では、普通に考えれば(仮に僕のような立場でも)心配で病院に行きますよね。この時期、風邪気味の人なら、数千万人の1%としても、数10万人はいるわけで、、、。それらの人々が、我先にと病院に押しかけたら、医療受け入れのキャパシティを超えてしまうのみならず、感染しなくて済む人まで感染してしまう恐れがあるでしょう。
 
そのことを考えれば「隠蔽(冷静に対処体制を整えること)」も仕方がないように思えます。もっとも、結果として「隠蔽」に失敗したため、人々の扇動の振り幅を大きくし、その結果、患者も倍々的に増えていく、という悪循環に陥っているような気もするのですが。
 


僕の素直な疑問
 
この病原体(新型肺炎コロナウイルス)が、従来の肺炎ウイルスと“脅威に値する”部分で、どれだけの差異があるのか、素人の僕にはむろん分かりません。
 
情報を整理すると、
「2002~2003年に流行した“サース”と似ている」
「威力はサースに比べれば、やや弱い」
「ヒト⇔ヒト感染が容易に為される」
「“新型”ゆえ、未知の部分がある」 
「発症までの潜伏期間が長く、潜伏期間中にも感染の恐れがあり、変化する可能性がある」
最後の部分で、「事実」と「妄想」が入り混じって構築された「恐怖心」が人々に伝わり、パニックを伴って感染者が増幅し、結果としてパンデミック状況が引き起こされる、、、そのような捉え方も出来るかも知れません。
 
そもそも、「新型」であるかないかに関わらず、「肺炎ウイルス」による「肺炎患者」というのは、日本においても中国においても、そんなに珍しいものではないですよね?
 
素直な疑問なのですが、新型以外の肺炎患者数や死亡者数は報じられずに、なぜに「新型」だけがが突出して取り上げられるのか。
 
従来形のウイルス潜在的感染者と、「新型」感染者は、どう区別しているのでしょうか? それとも、「新型」は怖いけれど、「従来型」には無関心、という事なのでしょうか? 従来型と新型の感染率とか死亡率は、どれだけ大きく違うのでしょうか?
 
「新型」だって、最初の患者(2次感染者)がマスメディアに登場する、ずっと以前から(もしかしたら何年も何十年も前から)存在していたのかも知れませんよね。
 
実際、僕自身が、30年余(殊にこの10年余)の中国での活動期間中に、何度か「急性肺炎」を疑われる診断を示されてきました(貧乏故、適切な検査や治療が出来ないままでいますが)。
 
中国の衛生概念は(中国で暮らしたことのある人はご存じでしょうけれど)信じられないほど滅茶苦茶です。例えば、なぜか生卵が突然爆発したり[*詳細例別記]、食堂のゴミ箱に赤ちゃんがウンチしていたり[*詳細例別記]、日本では絶対に考えられないようなことが、当たり前に成されている、という文化(僕はそれらの「文化」を頭から否定しているわけではありません)の許に成り立っています。
 
「海鮮市場」などに関しては、武漢に限らず、どこの都市でも、それはもう酷いものです。僕の印象では、中国の出鱈目さの象徴は、地方ではなく都市、貧民層ではなく富裕層、無教養層ではなくエリート、共産主義者よりも民主主義者、、、に、より色濃く反映されているように感じます。
 
見かけの近代化は為されてきたけれど、中身は昔とちっとも変わっていない(むしろ退化している)。今回話題になっている野生動物食材に関しても、富裕層の間で嗜まれているのです。
 
、、、以上に書き記してしてきた僕の意見は、的外れの意見かも知れません。しかし、大きな問題であるからこそ、今一度、より全体を俯瞰した視点から、眺め直してみる必要もあるのではないかと思うのです。
 
 
なぜ「湖北省/武漢」なのか?
 
最後に、第三の視点から、この「新型肺炎コロナウイルス」について考えて見ます。
 
「湖北省・武漢が発祥の地」
 
このことには、思いのほか大きな意味が隠されているのかも知れません。
 
僕は、「新型肺炎ウイルス発生」のニュースよりも、それとほぼ同時期にヤフーニュースなどに示されていた、全く異なる分野の、しかし同じ武漢周辺地域を舞台とした話題「世界最大の淡水魚絶滅認定」に興味を惹かれていました。
 
2つの話題は、今回の新型肺炎ウイルスの発祥元が、(武漢の海鮮市場で売られていた)何らかの野生動物(この地方に棲むコウモリやヘビ?)に基づく可能性がある、ということを併せ考えて、非常に深い部分で結び付くのです。
 
武漢周辺一帯(僕の主要フィールドの一つ「恩施」も今回封鎖された10都市の中に含まれます)は、
ある意味「地球のヘソ」ともいえる地域なのです。
 
地図を眺めても、この地域が、北の北京、南の香港(深圳・広州)、東の上海、西の重慶・成都のジャンクションに位置していることが分かるでしょう。
 
より踏み込んだ見方をすれば、地球の屋根(チベット高原などの高山地帯)に源を発する長江の流れが、四川盆地を経て河口の上海に向かう、中間に位置しています。
 
現存の多くの生物の祖先種(に近い存在)は、上流部のチベット高原周辺域よりも、一度四川盆地の低地帯を経た後、南北に山が迫る“三峡”渓谷と、その周辺地域(武漢は東入り口近くに相当)に見られることが多いのです。
 
上に挙げた、絶滅が認定された世界最大の淡水魚、唯一の野生の樹が生えるメタセコイヤ、野人(いわゆる雪男!)の目撃、稲作文化の発祥、、、僕の調査対象である、ギフチョウや野生アジサイの一種や、 レンゲソウの祖先種なども含め、貴重な遺伝子が数多くプールされている地域です。
 
愚かな人類は、そこに、なんと巨大ダム(三峡ダム)を作ってしまった。
 
自然界の「力」のバランスが崩れ、必ずや想定外の異変が起こる、と思っていました。もしかすると、今回の新型ウイルスも、、、と思うのは、穿ちすぎでしょうか?
 
 
さて、どうなることやら
 
ところで、春節期間に田舎に帰省している人たちの多くは、月末から来月初めにかけて都市部に戻ってきます。この緊急事態の中、大量の人々が、地方から都市に戻ってくることが出来るのでしょうか?(事態が落ち着くまで田舎に閉じ込めておくのかも知れませんが)
 
そもそも僕自身、2月2日に広州を離れて、香港空港から日本に帰ることになっています。広州や深圳が封鎖される事態になったら、空港まで行きつけるかどうか、心配です。
 
モニカからは、外出地には常にパスポートを携帯しているように、と指示されているので、ということは、たぶん外国人は大丈夫なのでしょうけれど。
 
あとは、飛行機の隣の席の乗客が、風邪を引いてないことを願うばかりです。前々回の帰国時、隣席と後ろの席の中国人が、4時間に亘って“ゴホゴホ”“ぐしゅぐしゅ”やってました。地獄でした。
 
で、成田のイミグレで、その旨を申請したのですが、「運が悪かったですね」と笑ってスルーされちゃいました。
 
ちなみに、今回中国広州では、大晦日に当たる1月24日から、地下鉄乗り場で熱検査が始まりました。その時僕は少し熱が計測されたのです。
係員:「貴方は日本人か?」 
僕:「そうです」 
係員:「じゃあO.K.」
有難いのかどうか、、、微妙です。