社会の窓から

社会の窓を開け放ち、世界の人々と交わろう。

青山潤三日記 2020.7.16 ②

ヤフーニュース評論家の青山潤三です(笑)。
 
同じニュースの別コラムに、同じコメントを入れてみました。
 
一つは、1000以上のコメントが来ているコラム(現時点で2245、猛烈な勢いで増え続けていて、僕以外からのre-commentも、すでに100近くあります)。そのトップコメントに対する、僕のリコメント(re-comment=僕がよく使う単語なのですが、余り使用例を見たことがない、、、、もしかするとこんな表現はないのでしょうか?誰か知ってたら教えて下さい)です。
 
もう一つは、ほぼ同じ時間帯にアップされた同じ内容の別コラムで、コメント自体が数個(現時点で18)しか来ていません。そっちのほうには、直接コメントを入れました。僕のコメントを見てくれるチャンスは多いはずですが、分母(このコラムを見る人の総数)は圧倒的に少ない。
 
さて、どちらの方が、僕のコメント(リコメント)に注目してくれるか。結果は、思っていた以上に差がありました。前者は、「そう思う28」「そうは思わない5」、後者は「そう思う1」「そうは思わない5」。
 
全く同じ内容の(同じ時間帯にアップされた)コラムに、全く同じコメントを投稿したわけですが、プラットフォームの違いによって、こうも数が(評価も)違ってくるわけです。
 
面白いですね(そのことの分析についての詳しい分析はそのうちに、、、)。
 
さて、そのコラムというのは、
 
最高裁、ろくでなし子さんの上告棄却、女性器の3Dデータ提供:弁護士ドットコム
(“よくわからない、、、、”というのがトップコメントで、僕はそれにリコメント)
 
漫画家「ろくでなし子」有罪確定へ:共同通信
 
の2つです。
 
僕のコメント(リコメント)は、この間アップした「パンツとマスク」と同じ内容。
 
>人間の体は、どこも重要ですが、外部に向けて常に対応し続けている最も重要な器官は、排泄・生殖を司る性器と、摂食・呼吸を司る口です。パンツを履く最大の目的は、そこを守るためです。しかし、大事な部分は、できれば人に見せたくない、という思いが、人間にはあるようです。したがって「防御」という本来の目的よりも、「隠す」という二次的な目的意識のほうが強くなってしまっている、というのが実情ではないかと思います。
 
>口のほうですが、、、。マスク着用は、本来はやはり「防御」のためだったのでしょう。しかし実情を見ていると、どうやら皆揃って「隠す」ことのほうに、目的意識が傾いて行っているように思われます、、、。
 
>近い将来、「マスクをせずに口を公衆に晒す」という猥褻?罪で、第二の“碌でなし君”が現れるかも知れませんね。
 
、、、、というような、ついこの間ブログに書いたばかりの話題を、再度取り上げたのには、訳があります。
 
「隠す」というキーワード。その反対が「現れる」です。両者は単独で成り立っているのではなく、裏表の関係にあります。
 
「隠れていた」ものが「現れた」。それが「新型肺炎ウイルス」です。
 
それを、どうやって隠せば良いのか、というのが、現在の世界(ことに日本)の命題です。
 
僕は、何度も繰り返し同じことを指摘しますよ!
 
「新型肺炎ウイルス」は、確かに脅威です。
 
と同時に、「脅威」は他にも沢山あります。
 
これまでにも存在していたはずの、しかし「隠れたまま」だった数多の「旧・新型ウイルス」と比較して、今回の「新型ウイルス」が特別な脅威であるとは実証できません。
 
人間、死ぬときは、複合的な要因によるのです。その要因のどの部分に焦点を当てるか。事故死の死因は、ある視点で見れば事故そのものにあるし、別の視点で見れば医学的な要因に収斂します。
 
都合の良くない、現れてきたものは、許せない(敵対する、排除する、無視する、、、隠す)。
 
なんか、人々、ことに偉い人(学者政治家メディア実業家芸術家宗教者etc.)は、頭が悪すぎるような気がします。
 
ヘイト問題(自由=既得権の主張につながる)にしろ、災害・気候問題(ダムや冷房は本質的な解決策ではない)にしろ、人類が選択すべき立脚点は、もっと別のところにあるのではないかと、、、、。
 
(今の世の中にとって)役立たずの、無学貧乏老人の僕は、心からそう思って、憤慨しているところです(笑)。