社会の窓から

社会の窓を開け放ち、世界の人々と交わろう。

日記2019.10.6 「ユリ科の話」

(末尾に写真多数あり)

僕は、全くパソコンやインターネットの事が分かりません。パソコンを使い始めてから15年ほどになります。最初の日のことをはっきりと覚えています。入手(某出版社から使うようにと押し付けられた)から2日間、必死に頑張ったのだけれど開くことが出来なかった。2日目になって、やっと原因が判明しました。パソコンを使うためには、まず「電源を入れなければならない」という事を、知らなかったのです。嘘みたいな話だけれど、本当です。余りにも無知なのです。

それから15年間、パソコンの知識に関しては、ほとんど進展していません。山の中にいるとき以外は、一日中パソコンに向かっていますが、出来る事だけ出来て、出来ないことは出来ない、という状況は、全く変わっていません。

今夏、三世が僕の「フェイスブック」と「ツイッター」と「インスタグラム」を始める、と勝手に決めて、即作ってしまいました。勝手に、と書きましたが、僕が三世に一任(早い話丸投げ)しているので、了解済み、ということでもあります。僕は「フェイスブック」と「ツイッター」と「インスタグラム」がどう違うのか、何をするのか、さえも分かりません。三世に言われるままに、写真と文章を送っています。

で、「インスタグラム」なのですが、大問題が2つ発生しています。一つはもう2か月前からなのですが、三世に「なんとかしてくれ」と頼んでいるのだけれど、「どうしようもありません」と。「どうしようもない」と言われれば、何の操作も出来ない僕には「どうしようにもない」のですが、それでは困ってしまう。でも「どうしようもなく」て、先送りにしていました。

そのことは後回しにして、今回、もう一つ発生した大問題について書きます。これは、どうにかして貰わねばなりません。三世に一任してはいるのだけれど、どうしても譲れないところはあります。

「インスタグラム」とやらを作るにあたって、僕の「キャッチフレーズ」が必要というので、適当に作っておいて、と答えておきました。すると、こんなのを作っちゃった、、、。

「無一文、無装備、老体(71歳)で、色んな意味で命がけで香港デモを取材」
これは困ります。

「老体」は事実だから、大いにアピールしたいです。「無一文」を強調するのは、ちょっと感心しないのですが、まあ事実なのでしょうがないか、、、という想いもあります。

三世も僕も、なんとしてでも稼がねばなりません。そのために、どこからか、少しでもお金を引っ張って来なければならない。僕は天涯孤独の身なので、どうなっても良いといえば良いのですが、三世は、あちこちに(笑)家族がいるので、そうも行きません。稼ぐためには、体裁とかに構っていられないのです。それで、インターネット上でも、いろんなのを作って、キャッチなコピーを考えて、何らかの形で収入に繋がるべく、訴えようとしているわけです。

しかし、「無装備」はマズいです。

「“無装備”は、すぐに消してくれ」とメールしました。でも直してくれない。
三世:「どこが良くないんですか?」
僕:「道義的な問題です」
三世:「一世はそんなこと言ってられる立場じゃないでしょう?」
僕:「いや、マズい。下手すると業界から追放されてしまう」

それについて、どう説明すれば良いのか、、、、。

三世の言わんとしているところは分からないでもないですよ。例えば、香港のデモ現場で、ニセ記者?みたいな恰好で「香港の若者の正義を日本に伝えるため」の取材を続けている、某ユーチュバー?は、「現場取材に必要な防御服」を購入したい、そのための援助が欲しいと「クラウドファンディング」で寄付を集め廻っているようです。三世は、「一世もそれに便乗して寄付金を募れば?」と言うのだけれど、「そんな奴とは一緒にしないでくれ」と言ったら、分かってくれたみたい。そういったポピュリズムに対する一種の皮肉を込めて「無装備」「無一文」のコピーを考えてくれたわけです。

三世曰く、
>一世は、「春夏秋冬、シャツ一枚、パンツ一枚、サンダル一足で過ごしている、熱帯のジャングルも、氷雪の高山も、この姿で登っている」と、いつも自慢してるじゃないですか。ここぞ自慢のしどころでしょう。

でも、違うんですよ。「無装備」と「軽装(例えばシャツ一枚だったりサンダル掃きだったり)」は。僕のは、結果としての(むろん買うお金がないということもありますが)「軽装」であって、「無装備」なのではない。60年間近く山を歩き回ってきて、一番フィットして、活動し易く安全なのが、「サンダル掃き(以前は地下足袋や礒足袋でした)」「シャツ一枚(長袖、長ズボンが基本ですが)」なのです。経験に基づく「装備」です。

もちろん、この姿で行けないところ(よほどの場所でない限り大抵のところには行けますが)には、行きません。例えば6000m超の高山とか、アマゾンのジャングル奥地とかは、それなりの装備が必要です。
それが(買うお金がなくて)出来ないところには行かない。

*昨日86歳で亡くなったカネやんも、勝手気儘に見えて、衣食住には徹底して自己管理していたのは、有名な話です。、、、、ところで、三世はカネやんを知らないそうです。今、ギリシャに来ている“ようたくん”という青年(少年?)も、カネやん知らないのだと。いやはや、大変な時代になったものです。

少し回りくどくなってしまいましたが、今回の香港デモの取材にあたって、「衝突現場を撮影するつもりはない」と言っていることとも、重なります。

「衝突現場を撮影しない」のは、次の2つの理由に拠ります。

①僕のポリシー。基本的に、人が辛い思いをしているところは撮影しません。他の記者やカメラマンが既に撮影しているだろう所を、重ねて撮影する必要はないと思います。過剰な取材・報道は、場合によっては(自分にとってではなく全体にとって)プラスよりマイナスになることが多いでしょうから。

②もうひとつは、単純に装備とか健康の問題。催涙ガスが発射されることは、分かっているのです。別に目が痛くなったりするだけで、体への大きな影響は及ぼさないのでしょうが、ガードなしにゴム弾や棍棒での打撃を受けたときなど共々、体調次第では周囲に迷惑をかけるような状況になるかも知れない。

取材報道は、誰でも可能である、ということが原則です。何らかの機関に所属しているものだけが許されて、フリーの記者の取材を規制する(香港の若者たちは報道にそれを課しているという、言動不実行なことをやってますね)ということは言語道断です。しかし、メディアに所属する記者であろうが、フリーの記者であろうが、自分の(様々な意味での)能力と照らし併せて、出来る事と出来ない事を認識したうえで、行動するべきだと思います。

「無防備」であることを、ことさら強調するのは、決して褒められることではありません。僕の「姿」は、「無防備」の結果の「軽装」なのではなくて、僕なりの「防備」を十分に考えたうえでの「身軽さ」なのです。

山での遭難が起こると、ヤフコメ民が、それ見たことか、と「ステレオタイプ」のコメントを寄せてきますね。計画が、装備が、食料が不備だの、単独登山はもってのほかだの、、、、。

実際の山は、そんな「理屈」で取り組める物ではありません。100%の正解は存在しない、ということを念頭に置いたうえで、臨機応変に対応します。その結果、場合によっては「パンツ一丁に裸足」で、豪雨の中、ガケやジャングルを歩き回る、という状況にもなります。そのことは、決して「無装備」ということではないのです。

読者に「無装備」を自慢しているような勘違いを起こさせたなら、表現者として失格の烙印を押されてしまう可能性もあるので、どうか消しておいてほしいと望んでいるのですが、、、、。

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もうひとつ、以前から「どうしようもない」内容のインスタグラムが張り付いていて、それを「どうしようもなく」て、「どうにもできないまま」にしているやつ。

これも、下手すると(ネイチャーフォトグラファーとして)命取りになってしまいかねないエラー?なのです。

最初から説明します。

8月の中旬、一気に「ブログ」「フェイスブック」「ツイッター」「インスタ」などを作っちゃった直後のことです。三世のアイホーン(たぶんそんな名前だと思います、携帯電話の大きなやつです)で、僕の名前でチェックしたら、知らない人からの画像?が入ってた。

三世が僕にその画面を見せてくれました。最初よく意味が判らなかったのですが、このような事だと思います。
>写した花の名前がなかなか判らなかったのだけれど、「山の花1200」という植物図鑑(僕が作った本)で調べて、やっと判りました。この本のおかげです。
というようなことが記されていました。僕に感謝する善意の投稿です。

ところが、三世に届いたその植物の画像を見ると、これはまた(想像を絶すると言ってもよいほどの)トンでもない間違い。結論をいうと、その植物は「ユリ」の仲間なのですが、僕の図鑑で調べて「スミレ」の仲間だと判断してしまったわけです。それで著者(僕)に対して「有難う」と言っているわけですが、 善意には違いないとしても、僕としては大迷惑なわけですね。

いくら何でも、「ユリ」と「スミレ」を間違う人など、そうそうはいないでしょう。例えていえば、「ネズミ」と「ミミズ」を間違えるようなものです。

僕の図鑑の、どこをどう見てれば、「ユリ」と「スミレ」を間違えるのか、理解しかねるのですが、その人にはそう見えたわけですね(ネズミの尻尾はミミズに見えなくもないし)。

それで、(投稿後何カ月も経っているのでもう意味はないだろうと思ったのですが)一応返信して、間違いを正してあげることにしました(その方が僕の返信を受け取ったかどうかは不明です)。

それで一件落着と思っていたのだけれど、超困った不思議な現象が起こってしまった。作ったばかりのインスタグラムのトップに、その人が三世に送り付けてきた画像と記事が、張り付いているのです。
>(僕の作った)図鑑を見て、写真の花(本当は「ユリ」)が「スミレ」である事が分かりました。

善意であることは分かるのですが、結果としては凄い嫌がらせ(笑)です。別に無視しても良いのでしょうが、作ったばかりの「インスタグラム」やらのトップにそれが載っているとなると、見る人によっては
「この図鑑の作者は、ユリとスミレの区別もつかない、エセ植物写真家」と判断され、他の読者の信用を全く信用なくしてしまう可能性もあります。

「なんとか消しておいてくれないか」と三世に頼んだんだけれど、「どうしようもないです」というツレない返事。

それで、潔白を表明すべく、ここに顛末を述べて行くことにしたのです。

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以上は、前置きで、ここからが本題です(笑)。

この方の撮影された(僕の「インスタグラム」に「スミレの仲間」と紹介されてしまっている写真)は、ユリ科の「ツバメオモト」という植物です。

確かに、一般のイメージの「ユリ」からすれば、大きさとか色合いとかは、パット見、どちらかと言えば「スミレ」なのかも知れませんが、普通、きちんと(例えば僕の図鑑で)調べたら、いくら何でも間違えようがないと思います。でも、人間、一度思い込んだら、とんでもない方向に突っ走って行ってしまうことはあるのですね。

何千年も前に人類の文明が発祥して以来、対象を「分類する」という作業が続けられてきました。「分類」は、二つの方向性から為されます。内(対象の側)と外(それを見る人間の側)。アリストテレスによる分類は、「内」側からの最初の試みだったのかも知れません。

似たものを集め、他の集団と区別するのが、外側からの分類です。似ているかどうかの判断は、人間によって為されます。

人間が捉え得る対象物の属性は、「大きさ」「形」「模様」「色」「雰囲気」、、、あるいは「視覚」や「匂い」や「味」や「音」等々ですね(人間以外の生物の中には、属性を捉える仕組みが人間とは異なる場合もあるでしょうから、さらに別基準の分け方が出来る可能性もあります)。

仮に、「大きさ」を分類対象の属性と設定してみましょう。その場合、例えば巨漢力士はゾウと同じ仲間で、一方ヒトの赤ちゃんは例えば小さなウサギと同じ仲間、とすることも出来なくはないわけですが、もちろん我々は、そうではないことを知っています。でも、他の生物にとっては、必ずしも「当然知っている事」とは言えないのかも知れない。

人間にしても対象の属性の捉え方は、個人により様々でしょう。この読者は、ツバメオモトを、大きさとか色とか漠然とした全体の形から、(図鑑の写真と照らし合わせて)スミレである、と判断したわけです(たぶん、ツバメオモトの写真が載っている辺りは、チェックすらしていなかったのでしょう)。

一方、それぞれの生き物自体を基準にした「分類」は、人間をはじめとした他の生物から「どう見えたり感じたりする」ということとは関係のない系統的な繋がり(血縁)による纏まりであり、人間が分類を試みる前から決まっているわけです。

ギリシャの哲人たちは、「見かけ」とは無関係に、それぞれの生物の間には「系統的な」繋がりに基ずく纏まりがあることを見抜いていました。人類(学者達)は、目に見えぬ「内からの分類」に取り組んで、現在(正確には20世紀末)に至る2000年余の間、様々な努力を繰り返してきたのです。

「本当の系統」に辿り着くには、実に多くの(外観上の)「欺き」を見破って行かねばなりません。数多の「欺き」を解き明かしながら、本質に迫って行くのです。

「見た目」と「本当の系統」は、概ね相反する関係にあります。「見た目」による先入観を取り除き、より本質的な系統(血の繋がり)を探っていくには、どこかに現れているはずの「ヒント」(分類指標形質)を見つけ出すことが必要です。

僕が取り組んでいるのは、蝶の場合は雄生殖器の構造、幾つかの植物では雌蕊の構造。それらの構造の中にも重要なヒントが埋まっています。

数多くの研究者が様々な検証を重ねてきたことによって、20世紀末には「内」側からの分類体系が、真実の姿に、ほとんど肉薄するほどの結果が齎されていました。

しかし、「外」側から見た「分類」結果と、「内側」から見た「分類」結果は、余りにも乖離があります。コレクターとか愛好家とかは、自分視点(人間ありき)で対象に接するので、当然、本質よりも属性を重視します。

見かけはソックリだけれど血縁的には全く無関係だったり、逆に全然似ていない物どうしがごく近い関係にあったりする「内側」からの分類は、一般には、なかなか受け入れられないのです。

*その辺りのメカニズムを、様々な理論(適応etc.)で分かりやすく説明したりし、大抵の人はそれで納得しているわけですが、僕に言わせれば皆インチキです(笑)。

ところが、20世紀の末になって、一気に状況が変わりました。アリストテレス以来、無数の研究者の手で積み重ねられてきたアナログ的手法(現在の感覚では「科学」というよりも「博物学」?)とは全く別の、それこそ「近代科学」の申し子と言ってよい「分子生物学」的手法での分類です。

どの生物も、体内の様々な場所に存在する「DNA」の中に、全ての属性の基となる情報が内包されています。その情報を読み解くことで、系統関係を容易に構築することが出来るのです。

ギリシャの哲人の時代から、2000年かけて、「実態」の非常に近いところまで迫っていた博物学は偉大だと思います。しかし「近代科学」の前では、一気にゴミみたいな存在になってしまうのかも知れない。

科学は絶対的存在です。反論は出来ません。もっとも、2000年かけて構築してきたアナログ的手法による結果を全てチャラにして、DNA解析に基づくAPG分類に統一してしまうのも余んまりだ、ということなのかどうかは知れませんが、教科書などには、当分の間は、新旧両体系による分類結果が併記されるようです。

それはともかく、日本人の科学信仰は凄いですね。ヤフーニュースのコメントなどに、「日本批判」「正義は一つではない」「法(香港政府の法は除く、笑)に対する批判」などと共に、「近代科学に対する批判めいたこと」を書くと、どっと青ぽっち(=そう思わない)が来ます。

科学は本当に絶対的存在なのでしょうか? DNAに示された答えは、アナログ的解析に比べて圧倒的に精度が高く、それまで行って来た作業結果が、まるで子供のおもちゃ遊びのようにも思えてしまったりします。少なくても僕は、DNA解析によって齎された分類結果については、ほぼ全面的に信頼を寄せているのですが、、、、でも、どこかに納得しかねるところがあるのも確かです。

その「想い」を上手く表現できなくてもどかしいのですけれど、大前提というか、根本的な解釈の問題というか、、、。「時間」が主役であるはずの「進化・系統」に関わる問題を、図や表の中に投影したり説明したりするためには、人間の側が“無意識的に行う恣意的な操作”のような部分が必要になってくるはず。永劫とも言っても良い時空の中で齎されるイレギュラーなバイアスを、三次元空間の中で「構築」された「解析結果」の中に、どこまで反映できているのだろうか?と。

例えば、ミトコンドリアや葉緑体の塩基配列に基づく様々な手法の解析は、概ね母系によってのみ系統を遡ることが可能とされています。

お母ちゃんの祖先と、お父ちゃんの祖先は、違うかも知れません(違って当然)。現時点では、お父ちゃんの存在を無視した視点からしかアプローチ出来ないわけで、未だにトータルな構築は無し得ていないのではないかと思うのです。

僕はバカなので、たぶんよく理解が出来ていないのでしょうが、最初のヒト(全ての現代人の祖先)は、100~200万年前のアフリカ大陸に存在した一人の女性(イヴ)に辿り着く、ということの意味がまるで分かりません。

別ルートで、別の時代の、別の空間に住む別の人にも(ホモ・サピエンスが多系統だ、と言っている訳ではなく、「多系統」「単系統」「側系統」とか言った以外の概念も念頭において)辿り着く可能性はないのでしょうか?。

もっと子供っぽい考えを持ち出すなら、100歩譲って、全ての現存人類の祖先が「かつてアフリカにいた一人のイブ」に辿り着くとしても、その前後や、その周辺の「ヒト」との関係は、説明され得るのでしょうか? なんか、上手く言いくるめられているみたいに感じるのですが、、、。

エセ(いわゆるトンでも)科学の存在は怪しからんと思っていますよ。スピリチャルとか、僕は全力で否定します。といって、科学が絶対的存在、とも思っていません。

確かに「科学」の力によって、人類は大きな発展を遂げてきました。それは事実です。

思うのですが、、、科学というのは、「方法論」を見つけ出すことなのではないでしょうか?全ては「用意」されていて、人類は、それを必死で探してきた。

人類が得た科学に基づく知識は、超右肩上がりに増え続けています。殊にこの数10年は、100年前には想像も出来なかったような、嘘みたいなペースで進行中です。このペースで行けば、100年後、いや数10年後には、現時点では想像もつかない、とんでもない発展の中に置かれているはずです。それは最早、「発展」とか「繁栄」とかの言葉では表現不可能な、異様な世界ではないかと思います。

過去のことは分かっても、未来のことは分かりません。例えば、仮に1960年を支点として、その前の60年とその後の60年(すなわち現在です)の科学の発展のカーブの(特にこの10年ほどの)様子を鑑みれば、更に60年後の2080年頃には、我々には想像もつかない、全く異質の世の中になっている可能性があるでしょう(もしかすると、余りの快速急カーブに耐えられず、本来あるべき進行方向の彼方にフェイドアウトしてしまって、人類は消滅しているかも知れない)。

「科学」の埋蔵量は、おそらく桁外れなのだと思います。このペースで「見つけて」行けば、今我々は「夢想」としか思っていないだろう「あらゆること」が可能になるのではないでしょうか?きっと、数十年後には、今の科学など「科学」とさえ言えないような、ゴミのような存在になっているのかも知れません。

科学者たちの努力には敬意を表しますが、全ては「用意されている」、、、。自惚れていれば、大変なシッペ返しを食うような気がします。

新たな科学的手法、DNAに組み込まれている情報を解析する(莫大なお金がかかります)だけで、全ての答えを証明することが出来る「魔法の杖」を見つけ出したということは、手法さえ知っていれば、(お金があれば)誰にでもできるわけです。ただし、その人たちが、対象への熱意や愛情を持っているかというと、残念ながらそうではないでしょう。決して、アナログ作業へのノスタルジーで言うのではなく、「どこか納得しかねる根本的な問題に対する漠然とした不安」も、その辺りから生じているのではないかと。

そういったことを考えても、こつこつと地道な努力を重ねつつ、「内側」からの探求に取り組み続けてきた「博物学」というのは、偉大な学問だったと思うし、かつ今後も重要性を有していると思うのです。

近年の日本人には、新たなものを必要以上に賞賛する傾向を感じます。例えば野球などのスポーツ。技術やレーニング、それに体力やメンタル、どれを持っても昔と比べて圧倒的に今の方が勝っている、比べるのはナンセンス、という記述をよく見かけます。

「昔の選手が記録的にいくら素晴らしくても、実力は今の選手に比べれば、中学生のようなもの」といったコメントに、「それは違うよ」と否定のリコメントを入れると、どっと「そうは思わない」のリコメントが来ます。

以前、誰の話だったっけ?そうそう、高校野球のピッチャーとの比較で、張本さんが「稲尾さんはすごかった」という話をしたら、「年寄りが昔の話をするのは止めなさい、稲尾さんを知っている人など、今の日本人にもうほとんどいないですよ」というコメントが来ていました。でも、稲尾の時代を知っている高齢者は全人口の三分の一ほどいるのですね。自分や自分の周りの人達だけの知識が全て、と考えている、今の日本人の典型例のように思います。

少し話は代わりますが、アニメーションの話です(「京都アニメ事件」のことを含む、核心的な問題点の考察については改めて別の機会に行います)。僕は漫画世代で、アニメーションと言えば「デズニー」が全て、あとは「ポパイ」とか、ごく少数の国外メディアの作品だけです。

手塚治虫の「鉄腕アトム」も「リボンの騎士」も「ジャングル大帝」も、紙の漫画で親しんできたのです。音楽の場合でも、様々な変革が1963年前後に為されるのですが、漫画からアニメへの移行も、その辺りになされたものと思われます。「ゴールデン・ポップスの時代」は「漫画の時代」で、「ビートルズ以降の時代」は「アニメの時代」ということが出来るかも知れません。

初期のアニメは、紙芝居に毛が生えたような、アナログ手法丸出しの、レベルの低いものでした。しかし現代では、本物さえも上回るのではないかと思われるほどの、子細な表現が可能になっています。特に「イメージの表現」が凄い。見る人に無条件に共感を呼び起こす「空気」を作り出す。表現は悪いですが(悪意で言うのではないです)、多くの人々が簡単にインチキ宗教に嵌ってしまうような。

安易な(自分で考えを組み立てることをしなくて済む)同調力を呼び寄す「空気」を製造する元となる、(今の日本の社会の中で絶対的正義とも捉えられているような)アニメという文化の存在に対しては、凄い、と思うとともに、危惧やしらじらしさも感じているのです。

何の話題だったか忘れてしまったのですが、コラムのコメント欄にあった素敵な言葉をキープしておきました。「ある日どこかのJokerさん」という方の投稿です。
>白黒時代の表現技法好きなんだよな~。あのコメディカルな動き見てると、リアルでもないもんにリアルを追求してる今の方がバカみたいなことやっているような気になる。

時代遅れの粗だらけの初期のアニメのほうが、 実は本物をより反映している場合もあるように、僕も思います。

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引き籠り小学生の知恵熱(あるいは老人の繰り言)日記みたいになってしまいました(笑)。

「ツバメオモトはユリ科植物である」、ということを言おうとしていたのです。それも「本物の」ユリ科であると。

どういうことかというと、、、、再び植物の分類の話になりますが、追って説明していきます。

キク科、バラ科、イネ科、ラン科、ユリ科、、、、自然界については興味がない人でも、(「400勝カネやん」「神様仏様稲尾様」「雨雨権藤雨権藤」を知らない若い世代でも、笑)大抵の人が名を聞いたことがあるはずの、メジャーな植物グループですね。

DNA解析に基づく植物分類の新体系によって、旧来の分類体系は、分離・統合・組み換えが為されました。とは言っても、その大半の結論は、旧体系の(最も先進的な)分類の中にも、(支持をされていたかどうかはともかく)示唆されていました。

中には、(これまで考えてもいなかった)アッと驚くような結果が示された分類群もありますが、上記を始めとする大多数の分類群では、「最新のアナログ分類」と、概ね一致します。

上記のうち、キク科、イネ科、ラン科は、進化の極にある、いわば末端的な分類集団です。比較的最近になって、一気に種分化が為されました。

「原始的」とか「進化」とか言った言葉のイメージは、実態とイメージが逆であることが多いようです。一般の人たちは、イネ科に対してもラン科に対しても(それぞれ別の意味で)「原始的」という印象を持っているのではないでしょうか。前者は、単純極まりなく見える貧相な?外観から、なんとなく。後者は、反対に豪華絢爛な花がジャングルの奥深くに咲いている、というイメージから、なんとなく。 それぞれ「原始的」な印象を重ねているのではないかと思われます。

実際は、イネ科もラン科も最も進化した(生物の歴史全体から見れば極めて新しい時代に繁栄を開始した)植物群のひとつであり、風媒(前者)とか虫媒(後者)といった生活体系の獲得に伴って、単一の方向に急速に多様化していったのです。

旧ユリ科植物は、それらとは正反対の位置づけにあります。

キク科、イネ科、ラン科のように、一つの纏まったグループではなく、それらが出現よりも遥かに古い時代から、(旧ユリ科植物に含まれる)幾つもの「集団」の祖先が存在してたと思われます。

それぞれ、比較的似た姿を保ったまま(いわゆる原始的な姿のまま)同じような方向に併行的に進化を重ね、今に至っているのです。互いの集団は、一見同じように見えても、実は血縁は互いにかなり離れています。

ただし、旧ユリ科植物全体を単系統として見るなら、いわゆる単子葉植物(ちなみに、DNAの解析結果に従えば、「単子葉植物」「双子葉植物」の概念自体が成り立たなくなります。そしてそのことは、「最新のアナログ的分類」でも既に検証されています)のメインを為す全ての旧・ユリ科植物を、新たな分類体系でも強引に「ユリ科」一つに纏める、という力技が取れなくもありません。

でも、そうはいかないのです。旧体系に基づく「ユリ科」が成立しない、2つの問題点を示しておきます。

①他の科とのバランス。

「旧ユリ科」を一つの科として認めた場合は、(いわゆる)双子葉植物各科との量的なバランスが取れなくなってしまう。(いわゆる)双子葉植物の、例えば科より上の単位の○○目とか、さらに上の単位の「××類的植物群」とかをも含んだ極めて大きな範囲の集団が、旧ユリ科一科と対応することになり、 不釣衝である。

②「旧ユリ科」は単系統群ではない。

もし、従来の「ユリ科」を認めるとすれば、ラン科やアヤメ科など(場合によってはイネ科などまで)、これまでは旧ユリ科とは別の科に置かれていた集団も、「ユリ科」の一部に組み込まれてしまう。逆の方向から捉えれば、ラン科などの存在を認めるならば、旧ユリ科も数多くの別の科に分離しなくてはならない。

まあ、これまでの慣例に従うならば、「旧ユリ科」を多くの科に分割することも、逆にラン科やアヤメ科などを「ユリ科」に含めてしまうことも、ともに抵抗があるということは理解できますが(したがって、現在でも、インターネットや書籍を問わず、様々な媒体で紹介されている「ユリ科」は、主にごちゃまぜの旧体系のほうです)、遅かれ早かれ、旧ユリ科植物も、いわゆる双子葉植物同様に、多くの科に分割されるべきなのは、当然の成り行きと思われます。

繰り返しますが、そのこと(DNA解析による提示と同じ結論)は、従来からの「博物学」の知識の積み重ねによっても(20世紀末頃には)ほぼ分かっていました。

一気に「真実」(好きな言葉じゃないけれど便宜上使います)が解明されるDNA解析による科学的手法も凄いのですが、2000年かけてコツコツじわじわ「真実」のほぼ手前まで辿り着いたアナログ的博物学も、別の意味で凄いと思います。

例えていえば、真っ暗闇の中、手探りで何日もかけて出口の寸前まで辿り着いた瞬間、明かりが灯った。最初から明かりがあったなら、あっという間に辿り着けたわけで、試行錯誤を繰り返していた時間は無駄だったということになります。でも、電灯の下での作業に比べれば、時間にして何百倍もの間、真っ暗闇の中を彷徨って、出口に辿り着いたということは、やっぱり凄い事だと思うのです。 

ということで、博物学の2000年の努力の結晶によっても、科学の一気のDNA解析によっても、旧ユリ科は単系統ではなく、側系統群の集まりである、という事が証明されたのです。それをどのように分けるかについては、アナログ的な分類では暫定的な処置に留まっていたのですが、DNAによる解析では、それをも一気に決めちゃいました(実際には、まだかなりの不確定な部分が残っているようですが)。新(DNA)旧(アナログ)解析での組み合わせは微細な部分では相違がありますが、概ね重なります。

すなわち、旧分類体系の「ユリ科」は、「ネギ科」「スズラン科」「キスゲ科」「チゴユリ科」「シュロソウ科」「サルトリイバラ科」等々の、20前後の独立の科に分割されたわけです(従来からあった「ラン科」や「アヤメ科」などは、それらの新たな科ともども、「旧ユリ科」のどこかに併立することになります)。

では、「ユリ科」の名はどうなってしまったのか?というと、ちゃんと残ってはいるのです。ただし、大多数の属は別の新たな科に移ってしまったので、「ユリ科」に残るのは、模式属の「ユリ属」を始めとした、ごく少数の属になり、メジャーな科から、一気にマイナーな科に転落(?)してしまったわけです。

狭義のユリ科に残ったのは、「アナログ博物学」でも「近代科学DNA検証」でも、ほぼ同じメンバーです。すなわち、ユリ属と、それに近縁なチューリップ属、およびその周辺の(研究者によっては両属のどちらかに抱合する見解もある)数属。

具体的には、ユリ属(ユンナンベニユリ属を含む)、バイモ属、ウバユリ属、ギボウシモドキ属、チューリップ属、アマナ属、カタクリ属、キバナアマナ属(チシマアマナ属を含む)の各種。アナログ解析でもDNA解析でも、互いの関係性も含め、概ね一致します。

ただ、アナログ解析では、幾つかのごくマイナーな属が、狭義の「ユリ科」に含まれることを、見落としていました。その一つが、ツバメオモトです。

単に、大きさとか色とか、全体のぼやっとした形に注目するだけなら、スミレに見えなくもありません。最初に記した、とんでもない間違いをした人も、責めるわけには行かないでしょう。

ちなみに他の見落としは、日本に集中して分布し異様な外見の花が咲くホトトギス属、日本を含む東アジアに少数の種が分布するタケシマラン属、および北米産の4属(うち2属はタケシマ属に、1属はツバメオモト属にごく近縁)。

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(狭義の)ユリ科の種を紹介しておきます。

日本産については、ユリ科全体で45種前後、僕はその2/3ほど(約30種)を撮影していますが、ほとんどが20年以上前にポジフィルムで写したものなので、ここでの紹介が困難です。一方、100種以上が分布する中国大陸産についても30種ほどを撮影していて、こちらはこの20年間にデジタルで撮影したものが多く含まれます。ここでは、それを中心に紹介していきます(日本産に関しては、一部、自著「山の花1200」からコピーした粗い写真を使用しています)。

*形態的特徴(特に基本的な形質)については述べません(改めて本気で纏めるときに記述します)。

写真① ヤマユリ 
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↑ヤマユリLilium auratum 2019.7.12東京都青梅市御岳山(標高400m付近)

日本在来の野生植物(殊に固有種)は地味なものが多いけれど、和名に“ヤマ”の付く幾つかのポピュラーな種、例えば「ヤマアジサイ」「ヤマザクラ」「ヤマツツジ」などは、結構美麗な花が咲きます。「ヤマユリ」もそのひとつ。これだけ大きく派手(と言っても白が基調で品位があります)な花が咲く日本固有種は、他にないと思います。ちなみに、「ヤマユリ」「ヤマアジサイ」「ヤマザクラ」「ヤマツツジ」は、どれも一般名称(「山百合」「山紫陽花」「山桜」「山躑躅」)ではなく、ちゃんとした「種名(和名)」です。

★ユリ科:グループⅠ

写真② ユリ科:グループⅠ(中国産の種)   
f:id:shakainomadokara:20191017150903j:image
01 Lilium taliense 四川省九賽溝(標高2700m付近) 1991.7.31
01 Lilium taliense 四川省康定(標高3100m付近) 2010.7.25
03 Lilium taliense 雲南省翁水村(標高3500m付近) 2014.7.16
04 Lilium taliense 雲南省翁水村(標高3500m付近) 2014.7.16
05 Lilium davidii 四川省西嶺雪山(標高2300m付近) 2011.7.16
06 Lilium sp. 雲南省梅里雪山(標高2300m付近) 2014.7.25
07 Liliun brownii 四川省青城山(標高900m付近) 1991.8.4
08 Lilium formosanum 台湾玉山(標高3000m付近) 2005.9.2
09 Lilium regal 四川省宝興渓谷(標高1200m付近) 2010.7.17
10 Lilium(←Nomocharis) forrestii 雲南省香格里拉(標高3500m付近) 2005.6.18  
11 Lilium lephophorum 雲南省白馬雪山(標高4200m付近) 2009.6.14 
12 Lilium nanum var. flavidum 雲南省白馬雪山(標高4300m付近) 2009.6.16 
13 Fritillaria sp. 雲南省白馬雪山(標高4100m付近) 2009.6.16
14 Fritillaria unibracteata 四川省雪宝頂(標高4200m付近) 2005.7.4
15 Cardiocrinum giganteum 四川省ミニャゴンカ(標高2900m付近) 2009.7.4 
16 Notholilion campanulatum四川省塔公(標高4100m付近) 2010.7.24

ユリ属は100種余が、主に東アジア(一部ユーラシア大陸西部や北米大陸にも)分布し、中国と日本が分布の中心です。ここでは中国産の種を紹介します。

四川西北部~雲南西北部の、標高2400m~3600m付近では、白~ピンク(紫の斑点を散布)の美しい花が咲く草丈の高いユリを、7月中旬~下旬に多数観察しています(写真②01~04と写真③)。この一帯からは、 Lilium taliense やLilium duchartreiなど、よく似た数種が記載されていて、写真の各個体がどの種に所属するのかは未検討です。ここでは、暫定的にすべてをLilium talianseとして扱っておきます。

写真③
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↑Lilium taliense 雲南省白馬雪山(標高2800m付近) 2008.7.29

写真④
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↑Lilium sp. 雲南省梅里雪山明永(標高2300m付近) 2014.7.25
一方、日本のコオニユリLilium leichliniiによく似た、橙赤~橙黄色の花の種も、同じ地域(四川省西部~雲南省北部)に分布していますが、やはり何種かが記載されていて、撮影個体がどの種に相当するのかは未詳です。とりあえず写真②05をLilium davidiiとし、梅里雪山明永氷河末端から流れ出る急流の岸に生えていた、著しく細い葉が密生する個体(写真②06と写真④)の同定は保留しておきます。

以上の各種が、黒班を備えた花冠が後方に反り返り、下向きに花が咲くのに対して、台湾産のタカサゴユリLilium formosanum(写真②08)と四川省西部に分布するリーガルリリーLilium regal (写真②09)は日本の南西諸島の固有種テッポウユリLilium longiflorum同様に、花筒が細長く、黒斑のない白い花がラッパ状に横向きに咲きます。これら3種は、ごく近縁な血縁関係にあると考えられています(写真②09の宝興渓谷産の個体は、Lilium regal ではなく Lilium sargentiaeとすべきかも知れません)。中国の広い範囲の人里近くには、これらによく似たハカタユリLiliun brownii(写真②07)も見られます。

雲南省を中心に数種が分布する花の美しいNomocharis 属は、しばしば独立属とされてきましたが、遺伝的にユリ属の中の一系統に収まることが判明しました。雲南省香格里拉周辺の冷温帯樹林の湿潤な林縁で良く見かけるユンナンベニユリ[仮称]Lilium(←Nomocharis) forrestii(写真②10と写真⑤)は、大きく鮮やかな花が咲きますが、通常、草丈が10㎝ほど(大きな株は数10㎝になる)で、花は下向きに開いて咲くため、撮影は非常に困難です。

写真⑤
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↑Lilium(←Nomocharis) forrestii 雲南省香格里拉(標高3600m付近) 2005.6.19

雲南省西北部の白馬雪山(標高5470m)には、中腹の冷温帯林林床に、花が大きくて紅色のタリエンセとユンナンベニユリが見られますが、標高4000mを超す高山草原(というよりもシャクナゲ低木林を伴った岩礫裸地)には、小型の3種が生えています。

写真⑥
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↑Lilium lephophorum 雲南省白馬雪山(標高4200m付近) 2009.6.14 

写真⑦
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↑Lilium nanum var. flavidum 雲南省白馬雪山(標高4300m付近) 2009.6.16

Lilium lephophorum(写真②11と写真⑥)は、花被弁の先端がくっついたまま開花する特異なユリで、僕は「クッツキユリ」と仮称しています。草丈は10㎝前後で、茎頂に淡黄色の大きな花を一輪つけます。

同じ地域には、やはり低い茎の頂に淡黄色の花が咲く、Lilium nanum var. flavidum(写真②12と写真⑦)も見られます。こちらは花冠がラッパ状に開き、一見した限りでは日本のクロユリの花を黄色くしたような印象です。チベットからヒマラヤにかけて分布する基準変種のLilium nanumの花色は紫色で、それとは随分異なって見えますが、ここではその一変種とする説を採っておきます。

この一帯では、もう一種、クロユリなどを含むバイモ属の未同定種を撮影しています(写真②13)。四川省雪宝頂の標高4000m超の良く似た環境に生えていたFritillaria unibracteata(写真②14)と同一種の可能性もありますが、「中国植物志」には雲南産の記載は為されていないので、種名は保留にしておきます。

Fritillariaバイモ属には、日本の高山植物のクロユリFritillaria camtschatcensisや、鱗茎を生薬や漢方に利用するバイモFritillaria verticillataなどが含まれます。

ユリ属とバイモ属は共に100種前後を擁する大きな属ですが、ユリ属の分布が東アジアに集中しているのに対し、バイモ属はユーラシア大陸西部や北米大陸にも数多くの種が分布しています。

クロユリの日本名は「黒百合」。したがって、様々な参考書や図鑑やブログには、たいてい以下のようなコメントが付されています。

「“ユリ”と名が付くが、バイモ属の植物で、本物の百合ではない」。似たような指摘は、「ユリ」と「クロユリ」の組み合わせのみでなく、非常に多くの生物の「日本名(和名)」に対し成されています。しかし、それらの多くは正しい指摘ではありません。

「ユリ」の場合、例えば「Disporum smilacinum=日本名“稚児百合”」や「Polygonatum falcatum=日本名“鳴子百合”」は、ユリとは類縁の離れた全く別の植物(それぞれ科の単位で異なり、前者はイヌサフラン科、後者はキジカクシ科)なので、従って上記の指摘「百合と名が付くが百合ではない」は成り立ちます。

一方「Cardiocrinum cardatum=日本名“姥百合”」や「Fritillaria camtschatcensis=日本名“黒百合”」は、それぞれ、ウバユリ属、バイモ属に所属し、その意味ではユリ属とは異なるのですが、共にユリ属に非常に近縁で、研究者によってはユリ属に含める見解もあります。したがって「ユリと名がつくが本物のユリではない」という表現は、少なからぬ語弊があるのです。

物事の全てに於いて言えると思うのですが、本質的な部分に対する追及や疑問を呈することを怠り、「見かけ」「名前」あるいは(単に「お上の決めた」)「慣例」「一般常識」などを基準とし、安易な結論に至る(それのみが正しいと信じる)のは、危険なことと思われます。

例えばクロユリの場合はユリ属ではなくバイモ属とされてきたわけですから、最近の傾向である「科学的記述が絶対」という根拠に基づき、「クロユリ」ではなく「クロバイモ」とするのが正しい、ということにもなりかねません(実際中国などでは古くからの由緒のある中国名を捨てて、全てを「科学的」な中国名に置き換えつつあります、それは日本も同じですが、欧米ではそんなバカなことはやっていません)。

ところが、見解が一転して、やっぱり元の説が正しかった、となれば、再び右往左往して名前を組み替えたりしています。日本や中国にとっての「科学」は、「権威」によって導かれた「空気」「同調」の上に成り立っているのです。科学の中身より、科学「的」であることの方が、より重視されているわけです。

写真⑧
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↑Cardiocrinum giganteum 四川省ミニャゴンカ(標高2900m付近) 2009.7.4 

Cardiocrinumウバユリ属は、東アジアに2~3種が分布、ユリ属に併合する見解もあります。前後に長く伸びた多数の花が、太い茎の上部に総状に付き、葉は、単子葉植物としては例外的に、丸く幅広く、網目上の脈を持ちます。Cardiocrinum giganteumヒマラヤウバユリ(写真②15と写真⑧)の草丈は1mを越し、中国東北部や日本に分布するウバユリCardiocrinum cardatumより1回り以上大型です。ミニャコンガの氷河下の温帯樹林の湿潤な林縁で撮影。

写真⑨
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↑Notholilion campanulatum四川省塔公(標高4200m付近) 2010.7.24

Notholilion(仮称:ギボウシモドキ属)は、東アジア(ヒマラヤ~中国西部)の高山に小数の種が分布しています。草丈1メートル前後、多数の花が太い茎に総状に咲くことはウバユリ属と共通しますが、個々の花は前後に短く花冠が大きく開きます。また、鬱閉地ではなく、開けた環境です。Notholilion campanulatum(写真②16と写真⑨)は、四川省塔公~八美間の高山草原で撮影。ほかに、雲南省香格里拉近郊の標高3500m付近の湿性草地でも撮影しています(2010.7.24)。


★ユリ科:グループⅡ

写真⑩ ユリ科:グループⅡ 
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01 Erythronium japonicum 日本(山形県) [「山の花1200」から]
02 Erythronium japonicum 日本(山形県) [「山の花1200」から]
03 Erythronium japonicum 長野県白馬村1990.5.5
04 Erythronium grandiflorum 北米ロッキー山脈2005.7.24
05 Gagea(←Lloydia) serotina 日本(北海道) [「山の花1200」から]
06 Gagea(←Lloydia) triflora 日本(北海道) [「山の花1200」から]
07 Gagea(←Lloydia) tibetica 四川省来金山(標高4100m付近) 2010.7.19

グループⅠの姉妹群で、ユーラシア大陸東部を分布の中心とするグループⅠのユリ属に対し、ユーラシア大陸西部を分布の中心とするTulipaチューリップ属(約80種、中国では新疆ウイグル自治区に10種余)などからなります。日本などの東アジアに数種が分布するアマナ属もチューリップ属に含める見解もありますが、アマナ属はカタクリ属により近縁と考えられることから、属の統合を行う場合は、カタクリ属も含めねばならないでしょう。

Amanaアマナ属は日本(アマナAmana edulis、ヒロハアマナAmana latifolia)と中国に計4種。うち、中国産については、僕は1988年と1989年に浙江省杭州市の雑木林で撮影し、種の同定が出来ないまま保留していたのですが、のちに中国の研究者によって新種Amana kuocangshanicaとして記載されました(今手許に写真が見つからないので紹介できない)。

一方、Erythroniumカタクリ属の分布の中心は北米大陸で、ロッキー山脈の高山帯に生えるグレシャーリリーErythronium grandiflorum(写真⑩4)など20種余が知られています。北米産の種の花色が黄または白なのに対し、少数の種からなるユーラシア大陸産の種の花色は、鮮やかな濃ピンク色です。ヨーロッパなどに分布するErythronium dens-canis、日本の春の里山を代表する植物カタクリErythronium japonicum(写真⑩1~3)などです。中国の大部分の地域ではカタクリ属の種を欠き、東北部(黒竜江省など)に日本やシベリア東部と共通のErythronium japonicum、西北部(新疆ウイグル自治区)にモンゴルやシベリア西部と共通のErythronium sibiricumが分布するだけです(ユーラシア大陸には他に2種が中央アジアや西アジアの狭い地域に分布しています)。

グループⅡには、このほかアマナ属によく似たLloydiaチシマアマナ属とGageaキバナアマナ属が含まれます。キバナアマナ属は、アナログ的解析では、グループⅠとⅡの中で、唯一「狭義のユリ科」に含まれていませんでした(ネギ科の一員とされていた)。APG分類では「狭義のユリ科」に移されるとともに、チシマアマナ属とも区別がつかないとして、属が統合されています(キバナアマナ属に統一)。

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以上の(グループⅠとⅡの)各種の位置づけは、アナログ分類とAPG分類で概ね共通していたのですが、APG分類では、幾つかの意外な属が、新たに「狭義のユリ科」に加わりました。

アナログ分類で見落とされていたのは、東アジア(主に日本)に固有の、外観も特異で「狭義のユリ科」の中では血縁上最も離れた位置にあると考えられるホトトギス属。やはり東アジア産のタケシマラン属。北米産の3属。それに東アジアと北米に少数の種が知られるツバメオモト属。

★ユリ科:グループⅢ

写真⑪ ユリ科:グループⅢ 
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01 Clintonia udensis 日本(北海道) [「山の花1200」から]
02 Mediola virginiana 北米アパラチア山脈 2005.7.24

狭義のユリ科の中心をなす2グループ(ユリ/チューリップ)の姉妹群に相当します。Clintoniaツバメオモト属は計7~8種。日本海周縁地域(日本列島、朝鮮半島、シベリア東部、中国東北部など)にツバメオモトClintonia udensis、中国西南部からヒマラヤ地方にかけての地域にClintonia alpina(両者を同一種に含める見解も)が分布するほか、北米大陸に5種前後が知られています。やはり北米大陸に分布する外観が著しく特異なMediolaメディオラ属も、ツバメオモト属にごく近縁であることが分かっています。

★ユリ科:グループⅣ

北米大陸の西海岸を中心に70種近くが分布するCalochortusカロコルタス属から成ります。ややチューリップにも似た非常に美しい種が多いにも関わらず、分類上の位置づけが良く判らなかった一群ですが、APG分類では「狭義のユリ科」の一員とされています。

★ユリ科:グループⅤ

写真⑫ ユリ科:グループⅤ 
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01 Streptopus simplex 四川省貢嘎山海螺溝。標高3000m付近。2009.7.2
02 Streptopus simplex 四川省貢嘎山海螺溝。標高3000m付近。2009.7.2
03 Streptopus simplex Mt.Fansipan(Vietnam=雲南省南部に隣接)標高2700m付近。2017.6.2

ユーラシア大陸の寒冷地から北米大陸西部にかけて7種が分布するStreptopusタケシマラン属、 北米大陸に5種が分布するProsartesプロサルテス属、および北米大陸西海岸産の2種からなるScoliopusスコリオプス属が含まれます。「狭義のユリ科」中、最も特異な外観で、むしろ別グループの、ナルコユリPolygonatum falcatum(キジカクシ科)やホウチャクソウDisporum sessile(イヌサフラン科)に類似し、以前はそれらの一員と考えられていました。果実は赤く熟します。

★ユリ科:グループⅥ

写真⑬⑭ ユリ科:グループⅥ 

東アジアに20種余、その大半が日本列島に分布するTricyrtisホトトギス属は、植物体、ことに花の外観が、他の「狭義のユリ科」の種とは著しく異なりますが、APG分類によって、真正のユリ科の一員とされました。

日本列島以外では、中国大陸、台湾、ヒマラヤ地方、フィリッピン、朝鮮半島などに、数種が分布しています。中国太陸には、日本列島などとの共通種Tricyrtis macropodaが福建省などの東南部山地に、ヒマラヤ地方などとの共通種のTricyrtis maculataが雲南省などの西南部山地に分布するほか、近年になって幾つかの種が、南嶺山地や秦嶺山地などから記録(新種記載)されています。写真⑬の種は、そのうちのひとつTricyrtis viridula(鳳陽油点草)ではないかと思われます。

台湾には、3種前後のTricyrtis属の種が記録されています。写真⑭は、おそらくTricyrtis formosana。
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↑Tricyrtis viridula 広西壮族自治区花坪原始森林(標高1500m付近) 2015.8.7
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↑Tricyrtis formosana 台湾合歓山(標高2500m付近) 2006.9.2