社会の窓から

社会の窓を開け放ち、世界の人々と交わろう。

遺書84 謹賀新年

数日前の天気予報では、年末年始、(日本海側だけでなく)東京の山沿いでも大雪になる、と言っていたのに、今日元旦は、雲一つない快晴です。それはそれで良い事だと思います。
 
よく言えば「万全の準備」、別の言葉に置き換えれば「責任逃れ」。
 
リスクを避ける。異質な存在に遭遇したときは「逃げる」(例えばマスク)、あるいは「叩き潰す」(ワクチン製造)。「受け入れる」という選択肢はないみたいですね。どうやら、人類の(中でも日本人の)選択肢が、「異質の排除」のみに収斂していきつつあるように思います。
 
今年のテーマ
「マスクとワクチンが人類を滅ぼす」
で行きます。
 
「コロナはただの風邪です」
「マスクはパンツになるのか?」
「マスクと民主主義」
「マスクと香港デモとコロナウイルス」
 
「マスクは“正義”の象徴」でも良いかも知れませんね。諸悪の根源は「正義の標榜」で、換言すれば「無意識強要同調空気」(集団性合法的洗脳)の形成、という僕の考え方の基本スタンスは、これまでと変わらないので。
 
ということで、「コロナはただの風邪」ということの説明に、これから一年がかりで取り組んでいきます(「科学的」という表現は嫌いなので、「本気で一生懸命に」と言っておく)。
 
たとえ一人でもブログを覗いて貰えることを信じて、誰よりも真面目に、正面から真剣に「コロナ」(呼称についての見解は以前のブログに書いた*のでそちらを参照してください)を考えていきます。ちなみに、僕は「コロナ」の呼称使用も、「マスク」の着用も、断じて反対する立場にあるのだけれど、とりあえずは一般常識に従ってます。まあ、ダメな人間ですね(笑)。
 
*遺書 4 2020-07-31 08:32:06 | 香港デモ、新型ウイルス、日記
「国際ウイルス分類委員会」の分類基準に基づく(以下同)ウイルスの種数は、2019年時点で6590種(むろん、生物の場合同様に研究者ごとに見解は異なるはずです)。
 
*青山潤三日記 2020.6.8 2020-06-08 14:11:52 | 「現代ビジネス」オリジナル記事
「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感 ただの「同調圧力の象徴」になっていないか
 
まあ、こんな記事を書いたりしたこともあって、メジャーメディアからは排除されてしまってはいるのですが。
 
それはさておき、今日はおめでたい元旦(最近の僕にとっては「中国の春節」初日のほうが元旦を実感するのですが)なので、(途中、チャーリー・プライドの追悼記事を除いて)約3か月間(「社会の窓から」の方は半年以上)中断していたブログを、再開することにします(そのうちにまた中断してしまう可能性大)。
 
ブログ更新を中断していたのは、別に確たる理由があったのではなく、「中国の野生植物」全100巻(各巻原版写真2500枚+テキスト100頁強収納)の作成(殊にその英訳)に没頭していたから(今やっと一巻目が完成)で、他のことに取り組む余裕が無かったのです。
 
年が明ければ、改めて「遺書」を継続すべく、年頭最初の話題は、一週間ほど前に決めていました。なので、唐突ですが、その記事の紹介を。
「絶対に殺してはいけない」現場が声を上げた死刑囚…その最期の瞬間に待っていたもの(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
僕のコメントは控えます。
この話題には、様々な暗示が含まれています。
(これに関わらず興味深い記事はいつもそうですが、記事そのものよりも読者のコメンの方が興味深い、、、それを読んでいて、大抵、「健全な人々の“心の貧しさ”」が、哀しく情けなくなってくる)
 
話は変わります。「様々な」といえば、ここしばらく、筆舌し難いほどの様々な嫌な目に会って、、、というよりも、辛く哀しい思いに晒されてきました(概ね「立派で健全で平和的なエリート市民」からの、僕のような「下層」人間に対する、無意識な侮辱的対応に収斂されます、笑)。
 
ということで、以下、私的な状況報告、および将来の計画など、長々と記して行こうと考えていたのですけれど、書く側もしんどいし、読む側(読んでくれる人がいるとすれば、ですけど)もさぞウザいだろうと思い直し、全部割愛することにしました。
 
でも、やっぱりちょっと私的な状況について書いておきます(もう冒頭から4回ぐらい方針変更)。
 
僕は、ずっと前から(かれこれ20年以上)“コロナ(広義)”に苦しんできたのです。まあ、僕だけでなく、毎年寒い時期には、大抵のお年寄りが似たような状況下に置かれているはずです。すなわち、風邪を拗らせての修羅の苦しみ。
 
一昨夜も、ポップコーンの糟が歯に挟まって、それを取り除こうとしたら、内口蓋の内側に滑り込んでしまった。これはヤバいと大きく咳き込み続けたら、それで喉をやられそうになった。この流れで(別に新型コロナでなくても)何らかのウイルスが関与すると、肺炎に至ります。
 
毎年のように、いわゆるコロナがあろうがなかろうが、それで苦しんでいるのです。
 
コロナは、一言でいえば、ただの風邪です。
 
そして、「ただの風邪」は、非常に恐ろしい病気です。
 
毎年毎年、なんらかのウイルス(それをコロナと呼ぶなら呼んでも良いのでしょうが)が関与して、多くの人が肺炎 に罹り、多くの人(殊に老人)が亡くなっています。
 
と、ここまで書いたところで、元旦になってしまいました。そろそろ寝なきゃいけない。で、5たび方向転換します。1月2日以降の記事用に並行して書いていた文章のほうが、やや纏まりが良いみたいなので、強引に、そっちのほうを付け加えておくことにします。
 
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みなさん、健康に気を付けられていますか?
↑これが、記事の導入部です。
 
一昨日、12月30日(ただし旧暦)は、明治の作家・斎藤緑雨の誕生日だったので、彼に関係する文献を幾つかチェックしていました。
 
明治27年5月19日、斎藤緑雨(26歳)から坪内逍遥(34歳)に宛てた手紙の一節(途中から)。
 
『さてさてと申すばかりの身の上に候、されど飽くまで食い違う方妙ならんと在候、聞けば不知庵もよほど窮しいる由、されど小生ほどにはあらざるべし、唯身ひとつのことならば、小生はなかなか身ひとつとは行かず、色々のもの附いて廻り、今や執達士の手中に落ちて、来る月曜日は公売処分を受くるなり、筆持つ貧乏は沢山あれど、これは小生が魁けなるべし、(以下略)』 
 
いわば貧乏自慢(笑)をしてるわけで、のちに島崎藤村(ちなみに友子さんは藤村大嫌いで、僕も同じく大嫌いです)が緑雨を評して「才は余りあれど、学は足らず、従って新しい時代に伴うを得ない、鈍物ではないが、又その先頭に立つことは無論出来ない人であった」と言っているような部分でもっても、「肺病」と「貧乏」のため陋巷に窮死した緑雨に対し、僕は多大なシンパシーを覚えているのです。
 
「才は余りあれど学は足らず(従って新しい時代に伴うを得ない、、、)」いいですねぇ。「才はあらねど学はある」(よって新しい時代に伴う)より、よっぽどいい。
 
上の文章(手紙の一節)は、「明治文学遊学案内(筑摩書房)」に再録された「斎藤緑雨と内田不知庵(魯庵)」(坪内逍遥)からの引用で、逍遥は(藤村らと違って)緑雨を非常に評価しています。
 
同じ書籍の次の項目には、「二葉亭余談」(内田魯庵)も紹介されています。これがまた面白い。結びの、愛情の籠った一節。(親友・二葉亭四迷を一言で評すと)「極めて常識に富んだ非常識な人で、矛盾だらけな性格破産者」。
 
明治文学といえば、漱石、鴎外、あるいは、一葉、露伴、紅葉といったところがトップに来るのでしょうが、その次あたりのポジションに置かれる、(ここで触れた)逍遥、二葉亭、魯庵、緑雨、、、といったところに、僕はより多くの魅力を感じます(僕のブログの記事で最も気に入っているものの一つが、2013年6月に掲載した「柳浪/眉山」柳浪/眉山 - 青山潤三の世界・あや子版(goo.ne.jp))。
 
ちなみに、緑雨は36歳で亡くなった(誕生日は慶応3年12月30日、漱石・子規・露伴・紅葉らと同年ですが、西暦に当てはめると一年遅れの1968年)わけですが、明治の作家たちは、どれくらいの寿命を得たのでしょうか?
 
主たるところ(明治元年以前は旧暦相当、右の没年は全て満年齢)を思いつくまま順不同に並べました。
夏目漱石(1867~1916=49)/森鴎外(1862~1922=60)/幸田露伴(1867~1947=80)/坪内逍遥(1859~1935=75)/二葉亭四迷(1864~1909=45)/尾崎紅葉(1867~1903=35)/山田美妙(1968~1910=42)/饗庭篁村(1855~1922=66)/森田思軒(1861~1897=36)/内田魯庵(1868~1929=61)/北村透谷(1868~1894=23)/樋口一葉(1872~1896=24)/広津柳浪(1861~1928=67)/川上眉山(1869~1908=39)/泉鏡花(1873~1939=65)/徳田秋声(1871~1943=71)/島崎藤村(1872~1943=71)/田山花袋(1871~1930=58)/徳富蘆花(1868~1927=58)/小杉天外(1865~1952=86)/小栗風葉(1875~1926=51)/国木田独歩(1871~1908=37)/幸徳秋水(1871~1911=39)/正岡子規(1867~1902=34)/落合直文(1861~1903=42)/与謝野鉄幹(1873~1935=62)伊藤左千夫(1864~1913=48)、、、、。
 
アトランダムに、ざっと20数人を挙げましたが、現時点での僕よりも長生きをした人は、坪内逍遥、幸田露伴、小杉天外の三人しかいません。明治の著名文人の多くは、僕より若く(それも概ねずっと若く)亡くなっているわけです。それにしても、樋口一葉24歳、、、、僕から見れば孫の歳です(でも作品は永遠に残る)。
 
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僕は今年で73歳になります。今の感覚では、それほどの歳ではない(?)のかも知れませんが、昔なら結構な年齢です。そろそろ消えてしまっても、文句は言えない歳だと思います。
 
不思議とまだ生きているわけですが、体も心もボロボロです。病気というよりも、10年近く前の大怪我が原因です。
硬いドングリを噛み砕き損ねて奥歯をクラッシュ。中国に於ける出鱈目な手術でもって、歯と鼻孔の間が空洞化し、腦蓋の隙間に膿がびっしりと溜まり、それ以前から病んでいたウイルス性肺炎を併発して、足が紫色に膨れ上がって切断寸前、目は真っ赤になって失明寸前の危機。今でも、飲んだ水は鼻から(時には目や耳から)出、それは良いとしても、食べた固形物が軟口蓋の内側から気管に至る「誤嚥」を、ほぼ毎晩のように繰り返して、七転八倒の苦しみ。本人は筆舌に尽くせぬ辛い思いをしているのですが、検査をしても何一つ異常が見出せません(唯一、血圧が異常に高く200前後、、、もっとも、それが高すぎるという認識は全く持っていませんでした、現在は投薬を続け150台)。
 
いずれにせよ、見かけ上は「5体満足」、歳(73歳)の割には、若く健康そうに見えるのです。それはそれで、不満です。とにかく、本人としては、生きているのが不思議なほど、辛い。特に午後になると、頭も胸もお腹も、どうしようもないほど苦しくなる。
 
例えばマクドナルドで夜間清掃バイトをやるとします。ゴミ出し、床の油掃除など、かなりの重労働です(どの職種でも言えることでしょうが、大体、20歳前後の体力抜群の若者が客対応、それはそれで良いとしても、70オーバーのジジババに重労働を課すというのは、何かおかしいような気がする)。
 
僕の場合は普段昼型生活なので、夜型への変換が結構難しくて、失敗すると覿面に体調を崩してしまう。作業中に倒れて(上には内緒で)救急車を呼んだりしなくてはなりません(知れると即クビ)。
 
昨年2月1日に帰国後、そろそろ丸一年の日本滞在(数10年ぶり)になります。
 
年金3万5000円と家賃がバーター(膨大なポジフィルムとかセミの鳴き声のテープとかの資料を収納した150箱の段ボールがあるために部屋を出るわけにはいかない)。ちなみに中国広州のアパートの家賃(8000円)は、弟子のモニカが支払い続けていてくれたのですが、当分帰れる目途も立たないので、先日解約して、置いてあった数多くの資料はモニカの実家に移動しました。
 
日本の公的機関も、民間援助機関も(ハローワークやシルバーセンターでさえ)、僕のようなイレギュラーな人間には、 目を向けてくれません。その分イレギュラーな形で生活保護を受けているわけです。
 
支給額は、なんだかんだ差し引かれて実質6万円台。そのうち、2年前にクラッシュしたHDDを取り戻すための修復費用支払いに、毎月3万円を回します(あと一年で完済)。命より大事なものなので、最優先は当然です。生活は二の次。
 
しかし、外野は分かってくれませんね。そんなことせずに生活費に回しなさい、命あっての物種、と。でも、命なんて、早かれ遅かれ尽きてしまいます。「仕事」は(地球が存在する限り)永久に残る。どんなことがあっても廃棄されることを阻止し、取り戻して後に引き継がねばなりません。
 
というわけで、手取り6万円の半分の3万円、一日1000円が生活費というわけです。Wi-Fiが必須なのですが、部屋で使える携帯Wi-Fiの購入は僕には出来ません。契約条件として、携帯電話ひいてはクレジットカード所有が課せられています。僕はそれらを持てません(理由は教えてくれない)。
 
中国や東南アジアでは、安い携帯Wi-Fiが、(それこそ「身分」を問わず)室内を含めてどこでも常時使えて便利なのですが、日本の社会に於いては、僕のような「身分」の人間は、そのことを遮断される。
 
ということで、日本に滞在中は、必然的に、スタバとかマクドとかイオンとかファミレス各店とかに行かざるを得ません。(ここでは細かい事情は省略しますが)なんだかんだで、メインはスタバ利用になってしまいます。
 
スタバはコストが最もかかる(ドリップコーヒー代319円)のだけれど、かかりつけの病院の近くということもあって、結果としてほぼ毎日通っています。
 
朝8時20分起床、顔を洗って(ガスを止められていてお湯を沸かせないので真冬も水シャワー使用)、8時30分に部屋を出、急ぎ足で最寄り駅に行き、8時42分の電車に乗って3つ先の駅(170円)に8時49分到着、スタバの前で10分間待機し、9時ジャスト(コード席確保のため)の開店から、夜11時の閉店まで、319円のドリップコーヒー一杯で粘ります(スタッフの人たちには事情を話してあって、暖かく受け入れてくれています、実に感謝しているのです)。
 
ひたすらパソコンに向かって、いつ終わるとも知れない(単純計算では10年や20年かかりそう、笑)写真の整理を、一心不乱に行い続けています。その間、原稿を書いたり、調べものをしたり、たまに(例えば阪神タイガースがらみとかの)ニュースコラムを見たり(しばしばコメントも入れる、笑)、クラヴィング・エクスプローラでアメリカン・ポップスの曲をユーチュブから取り込んだり、自分が書いた記事を一つ一つ英訳してモニカに送ったり、、、、。
 
とにかく、朝9時にオーダーしたコーヒーが、夜10時を過ぎてもまだカップに残っているほど、集中してパソコンと格闘しているわけです。
 
途中、一応昼飯で隣の松屋へ。牛丼小330円(経済的余裕があるときは90円でおしんこ追加、あるいは「餃子の満州」で429円の餃子ライスセット、、、これがまた美味しい、、、今の我が身には贅沢すぎるけれど)。いずれも速攻5分で食べます。
 
夜10時を過ぎると、階下の西友地下で半額弁当を100円前後で購入、10時55分にスタバを後にし、10時58分の電車で11時06分アパート最寄り駅着、11時20分自室に帰り着きます。買ってきた半額弁当を食べ(その際 ほぼ毎回のように誤嚥で苦しむ)ながら、更に2時間余、ミカン箱の上に置いたパソコンに向かい、睡眠剤を飲んで、 ベルト・ケンプフェルトの音楽を聴きながら、原則(決めてるわけではないですが、たまたま)01時20分就寝。ちょうど7時間の睡眠時間です(きちんと眠らねば覿面に体調を崩してしまう)。我ながら、実に規則正しい生活を続けているのです(笑)。
 
一日の予算は、往復の交通費を併せてちょうど1000円、月3万円。でも、電気代(通常1000円以下、冬は電気ストーブを使うので3000円ぐらいかかる)とか、ごくたまに向かう都心への電車賃とか、月に一度は行く銭湯代(普段は自室で冷水摩擦)とか、パソコン関連のアクシデントに際しての思わぬ費用とか、なんだかんだで、どうしても足が出てしまいます。その場合は、3駅先の病院やスタバには、(2時間近くかけて)歩いて行く。食べるものが無くなれば道端の雑草を食べます(意外に美味しいものが多い)。深夜2時まで起きていることが出来たなら、隣のコンビニで賞味期限弁当などを分けて貰うことも可能です。
 
え~と、長々と書いてきたのは、要するに「生活には特に困ってはいない」ということでして、早い話、衣食住には困っていない。ちなみに「衣」に関しては、(モニカが買ってくれてる衣類は中国に置いたままだけれど)、ヨドバシスタッフのM君や上海中国人芸術家のD氏からセーターやズボン、ギリシャのジョージからサンダル、中国の元婚約者スーリンからジャンパー、あとは自分でTシャツやブリーフを100円ショップで3枚ずつ購入、それを毎日水道で手洗いして一年間着ている。見かけはともかく清潔な身なりは心がけています。あと100円眼鏡と併せて、身に着けている自分で買ったものは、総額(税込み)330円。僕の値打ちは、最低330円はあるということですね(笑)。
 
生活に関しては、それで充分。外野に文句を言われる筋合はありません。まあ、それが良い事なのかどうかはともかく(少なくても日本滞在中は)数10年間そのスタイルで通してきたので(僕の目からは日本人ほぼ全員が余りに贅沢に見えます)。
 
仕事(具体的には、これまでしてきた仕事を残し伝える作業)をしたい。そのための資金がいる。その資金を得るために仕事したい。しかし閉ざされている。
 
そんなわけで、いつ実を結ぶか分からないまま、毎日、実に規則正しい作業を行い続けることを、余儀なくされているわけです。考え方によれば、実にハードな生活です。途中の松屋(たまに餃子の満州)の昼食タイム(食べるのに5分もかからない)を除けば、朝9時から夜11時まで14時間、座りっぱなしで全力でパソコンと格闘しているわけですから、考え方によれば凄いオーバーワークなのかも知れません。
 
毎日、夕方以降は、頭と胸と胃が猛烈に痛く(苦しく)なり、しばしば意識が無くなりかけて倒れそうになります。でも、病院で検査をしても、(上記した血圧と口蓋の奥の破損以外には)どこにも異常が見つからない。医者は「ストレス」だ、というのですが、それは「最強の安易診断」で、とても納得し難いです。
 
仮に「ストレス」を認めるとしても、じゃあどうすりゃいいのか? そりゃ、しょっちゅうお金の工面を考えていたり、 一日中パソコンにへばりついていれば、膨大なストレスを生み出すのかも知れませんが、それが僕にとっては日常なわけですから、どうしようもありません。
 
そこへ行くと、スタバのスタッフなどは羨ましいですね。一生懸命働けば、その報酬としての給料が発生する。僕だって、そこいらのサラリーマン以上の仕事量をこなしているのです(必ずしも好き好んでやってるわけではない)。サラリーマンなら、たぶん同じ内容の作業をすることで給料が貰える。僕の場合は、加えて土日無し毎日6時間の残業込みで、一銭の収入も得ることが出来ない(「収入を得る」という目的で取り組んでいるにも関わらず)。
 
「プレッシャー」があるとすれば、サラリーマンの比ではないのです。むろん彼らの場合は、「企業を通してのダメージを避けるための責任」を背負っているわけですから、そのプレッシャーは「個人」のそれよりも大きいということも出来るでしょうが、たとえ失敗しても、最終的には、(せいぜいクビになるくらいで)直接自分の身に被害が降りかかってくるわけではありません。僕の場合、全ての結果が自分の行く末に直結している。まあ、一言で「プレッシャー」「ストレス」といっても、それぞれ次元が異なるのだと思います。
 
どんどん話が回り道になってしまっていますが、何を言おうとしているのかというと、僕は今年73歳になり、心身ともに、満身創痍の状態にあるということ。
 
一般概念の「リスク管理生活」とは程遠い、滅茶苦茶な生き方です。確かに、僕が体質的に「酒」「たばこ(各種ドラッグも)」「甘いもの」がダメだということが、体調維持にプラスに作用しているとは思われますが、それ以外のことでは、常識的な視点に於いてのリスクは、数限りなく背負っているように思われます。
 
例えば衛生面。東京の僕のアパートの部屋の汚らしさ。別にゴミ屋敷というわけでもないのですけれど(写真や本や資料を詰めた段ボール150箱以外には何もなく、ゴミは週2回ちゃんと出している)。
 
なにしろ、布団もありません。40年ぐらい前に買った夏物のシュラフと、チエちゃんが買ってきた薄っぺらいシート。
同じくチエちゃんが買った電気ストーブ(さすがに冬は肺炎防止のため常時利用している)と、お湯を沸かす、壊れて唯の電熱器化した(湯が沸くまで数10分かかる、たまに冷水ではなくそれで体を洗う)炊飯器。机はもちろん「重ねた本+みかん箱」で代用。上記の衣類少々(常に洗濯している、マスクと靴下も念のため各3枚・3足常備)。モニカからぶんどったカメラ一台。いつも持ち歩いている英語と中国語の辞書。Billboardチャート本数種。中国各地の地図帳、、、。それら(にパソコンとHDD)が、段ボール150箱以外の、全ての「財産」です(泥棒が入っても何を持っていけばいいのか、さぞかし戸惑うことでしょう)。
 
まあ日本の部屋も汚いことは汚い(ゴキブリがうろつきまわっている)のですが、中国の部屋(上述したように先日引き上げた)のどうしようもない汚さに比べれば、可愛いものです。一か月留守にしていると、数ミリの厚さの埃に、部屋中が覆われてしまいます。
 
夏期には、朝購入したパンが夕刻には湿気でぐしゃぐしゃになり、朝入れたお茶は夕方にはカビにまみれてしまいます。桁外れの湿潤と桁外れの乾燥が同居、町中埃だらけで、水道からは茶色い水が出、農薬まみれの野菜と、油にまみれた料理を食べています。
 
公共トイレの壮絶な汚さは周知の通り。のみならず、地下鉄のプラットホーム、高級スーパーのフロア、食堂のごみ箱、、、いたるところで子供が小便・ウンチしています。
 
僕も、(中国滞在中は)そのようなところで日常生活を送っているわけです。
 
むろん、日本でも中国でも、冷房などは一切使いません。熱中症対策などはしたことがない(「マスク」同様に「クーラー」も諸悪の根源と思ってるので)。
 
食生活も、一か月毎食松屋牛丼だったり、相当に出鱈目です。面倒くさいので一度に貯め食いしたり、逆にお金がないときは道端の雑草と水だけで過ごしたりと、滅茶苦茶です。
 
精神面でも、上に何度も記したように、寝る時以外は一日室内でパソコンに向かっているわけで、(経済上の逼迫も加え)たぶん、とんでもないストレスを背負っているのだと思います。
 
と思えば、(少なくとも一昨年頃までは)4~5000m級の山岳地帯を、サンダル履きで一日50㎞歩き通したりしている。客観的に考えれば、老人の行動としては自殺行為のようなものです。
 
たぶん今でも(マクドナルドの深夜清掃のような対外責任を負わねばならぬ作業は出来ないとしても)5000mの山に調査に行くとすれば、行けると思います。たぶん(本番は10年余試していませんが)あっちの方も、若い可愛い娘を用意してくれれば、大丈夫なんではないかと(今でもゴミ捨て指定日にゴミを捨てに行くような感覚で定期的に自分で出していることですし、笑)。
 
いずれにしろ、いわゆる「健康管理」に関しては、滅茶滅茶です。とにかく、健康にプラスになるようなことは、何一つやってません(自慢しているわけではなく、自分なりに反省している)。
 
むろん、今回のコロナへの用心も(少なくとも自分が被るリスク管理に関しては)一切していない。ウイルスには、これまでにもしょっちゅう感染してきたわけですから、かかるときにはかかる。
 
それでも、73歳の老人にしては、何とか持ちこたえているわけです。
 
全てにおいて、健康管理・リスク排除に気を使ってる人たちとは、正反対なわけですが、結果として、我彼のどこが違っているのでしょうか?
 
大金を注いで、常に健康管理・リスク回避を心がけている人たち(お金持ち)が、意外と早く衰えてしまったり(その人たちの中に73歳で5000m級の山々を歩き回れる人はどれくらいいるのでしょうか?)する反面、普段、健康管理・リスク管理を行っていない(行いたくても行えない)「貧乏人」が、案外しぶとく頑張っていたりします。
 
訳注:
 
➀4~5000m山の山々を歩き回る云々について。そのようなところも、原則サンダル履きです。下手に靴を履くと、即体調に悪影響が及ぶのです(ある時期「裸足にサンダル」が正装のミャンマーにいたことも関与)。もちろん雪のあるところや渓流沿いの苔むした岩上を歩くときなどは例外。そのような所に行く時は、磯足袋(以前は地下足袋に草鞋)やマラソンシューズを履きます。
 
②中国奥地での行動は、必然的にヒッチ・ハイクを余儀なくされます。困るのは、乗せてくれた車で、必ずのようにカメラの話題が出ること。「どんなカメラを使っているのか見せてくれ」と。彼らは、完璧なアウトドアスタイルの装備をし、カメラも高級なのを何台も持っています。でも僕のほうといえば、貧しい身なりにボロカメラ一台。みっともないことこの上もないのです。それは中国に限ったことではなく、日本でも同様です。鎌倉(といっても山の中のボロ家)在住時、近くに住んでいた高名な作家の紹介で、「朝日カルチャーセンター」とかの、「鎌倉ネイチャー写真教室」とかの講師を引き受けたことがあります。いざスタートという直前になって、主催者側から依頼取り消しの要請が。僕のカメラが、余りのぼろカメラで、レンズも一本だけ、それでは生徒さんたちの信頼を得られない、ということなのだそうです。「弘法筆を選ばず」といっても、現代の一般社会では通用しないのです。
 
③中国(香港経由)行の航空チケット代は、通常8000円程度(成田までの電車賃が半分ぐらいかかる、笑)。それをも含めて、日本で暮らすより中国で暮らした方が、安上がりで、かつ圧倒的に便利。
 
時間になりました。こんなどうでもいい文章書いてて時間を無駄に使わずに、「中国の野生植物」全100巻の整理に取り組まねばなりません。
 
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最後に纏め。
 
僕にとって、油断大敵な存在は、風邪、すなわち従来からのウイルス全般であって、決して「新型武漢コロナウイルス」ではありません。むろんそれも脅威には違いないですが、脅威は他にも無限にあります。これまでと同様に、「風邪をひかぬよう」留意するだけです。
 
(いわゆる「コロナ」を含めた)ウイルスは、決して「敵」ではありません。「敵」と見做し、「(マスクで)逃げれば済む」「(ワクチンで)やっつければ済む」という問題ではありません。
 
今こそ「俯瞰的」な見方が必要とされている。
 
そのことと、途中から突然付け加えた「明治文学」以下の話題と、どのような関りがあるのか。まるで支離滅裂のように思うのですが、無関係ではないのです。どっかで繋がります。
 
頭の悪い僕には、うまく繋げることが出来なくて、もどかしいのですけれど。